KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows? -12ページ目

KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows?

HAVE I JUDGED A BOOK BY HOW IT'S BOUND?
AM I LOST OR AM I FOUND?
ARE YOU WITH ME?



「ママ 早く家に帰ろうよ」


「ちょっと待って! あそこにいいケツした男がいるのよ」







私の20代は、それまでの自分を大きく変えるものであった。

言葉・文化・捉え方の違う海外での生活は、思った以上に難しかった。

その中で見出したものは、同じ人間なのだからと原点に返り、自分を生まれたての「赤ん坊」だと頭を切り替え、外国語を日本語で解釈するのではなく、その国の言葉として捉え、人の口の動きや表情を視覚でとらえ、音に注意を払い、自分の声にも気を配った。もちろん外見は青年なので、よくバカにされたが、"NO PAIN, NO GAIN" 「痛みなくしては、何も得るものなどない」 であると考え、実行を継続すること 

全ては修行であった。

とりまく環境はすさまじかった。 経済的理由で、住めるところは、黒人街のど真ん中 東洋系はベトナム難民がわずかながらいた。 近くにベトナム人が働いている中華ファーストフードレストラン(経営者は白人ボス)があり、店名がミス・エッグロール(エッグロールとは「春巻き」のこと)であり、店の周りには、いつもギャング連中がたむろし、東洋人はみなChinese中国人であるとみなし、決まって”Hey, Yo, eggroll" 「ヘイ、ヨ-、エッグロー」 と奴らは、バカ扱いしてからかっているだけ。 ストリートの各ブロックではギャング連中が立ち並び、車がやってきては、ヤリトリをしているので、毎日何十回もパトカーの巡回があった。 日中から、若い連中がピストル取り出して空に向かってパンパン打ちまくってる姿や、黒人売春婦と白人売春婦のケンカをよく見て、私はよく笑っていた。 当初は、私自身も襲われて酷い目にあった。 黒人の中には、特に人種差別感がひどい者がいる。 「俺達は、かつて奴隷だったんだから、他の少数民族も奴隷扱いされるべき」と怒りに満ち溢れている。 まぁ、私の場合、ある日、怒りを爆発させてからは、その街に溶け込んでしまい、よくストリートの連中とおしゃべりもするようになった。映画を実体験しているようで、何もかもが刺激的であった。 近くにはホームレスの施設、DV被害者救済所、教会の食糧無料配給があった。 その国の、いわゆる底辺と呼ばれる人達との交流は、私の「根性」に磨きをかけた。 ある意味、馬鹿げた生き方でも、それぞれが、それぞれの人生のストーリーを持ち、感情に満ち溢れ、個性をリアルに尊重できる体験であった。また、死活環境の中でも多くのミュージシャンと接点を持てた貴重な時間でもあった。

そんな中で、仕事にありつき、危険な地域ともオサラバできるようになってからの白人主義社会での生活は、これもまた修行であり、屈辱的ながらも刺激的なもので、忍耐力に自信をつけた。

結婚と離婚、その他諸々は私にとって、全て試練であり、ハードルは高まるばかりだったが、「神」との心での交流が、私に「力」を与えてくれた。



一人前の社会人として得た有給休暇には、日本を訪れることもできるようになり、「浦島太郎」を体感した。

日本人が全て中国人に見えた。それだけ、その国に染まっていたのである。 日本の全てが、とてもミニチュアで細かな世界に感じた。 その一方で、日本の文化・礼儀作法の美しさを改めて痛感した。



30代: ある理由で、帰国することを決意した。 帰国後は、20代で積み上げた「力」が開花したようであった。 全てをコントロールし、調子に乗り過ぎた、有頂天な自分がそこにいた。

あらゆる啓発書を読み漁り、実行に移し、あらゆる願望を実現させ、「思考が現実となる」のを何度も体感した。 思いあがりまでも「力」が克服したようであった。 Greed「傲慢さ」 まで知らず知らずのうちに学んでしまった。 資本主義の在り方に乗っかったようでもあった。



40代: 子供の頃には想像もできなかった年代に入った私は、30代のまま、突っ走るのみであった。 仕事・仕事・仕事… ある出来事の連続の中で、燃えつくすように「力」を失った。 まるで立ち往生できない、身体さえも動かなくなり、 「欲」というものが消え去るようになった。 

味覚が消え、食欲も性欲も喪失した。 視覚と聴覚が、異様に敏感になり、 改めて芸術の意味が理解でき、「哀しみ」と「残酷さ」が見えるようになってしまった。 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの狂気なる絵画は、あまりにも刺激的で目をそらしてしまう。 ダ・ヴィンチの残酷な表現に天国と地獄の存在を痛感し恐怖感を抱いてしまう。 平和的なモネェの作品が私に平常心を与えてくれるようだ。


ささいな音でも騒音となり、苦痛を感じ、音感が理解できるものの、そこには感動はない。 喜怒哀楽の「喜」と「楽」が出てこないため、モチベーションにもならない。 ピアノの演奏をギターで表現できても、そこには「嬉しさ」や「達成感」などわいてこず、「ただ合っている」という事実だけだ… 

金銭感覚まで麻痺しているためか、ケタチガイの借金を抱えても、それ自体を把握できない。 むしろ、そういった自分の姿に苦悩するようだ。 資本主義ピラミッドの上と下を体感し、「悪」の根源が見えるものの、退治する適応能力がついてこない。 

全てを「病」のせいにはするのは「卑怯」だと捉え、あらゆる回復方法を試みようと、専門家(主治医)に従順になり、毎日ベスト(ここでいうベストとは、時に休み、時に動くという療法)をつくすよう自己管理に努めているが、自殺希念との立ち向かいが継続する。 個性と才能を自覚できているはずなのに、何故に自殺希念に囚われるのか? 考えたくなくても、考えないようにしようとしても、辿りついてしまう、おかしな脳とその思考回路。

毎日、宿命の大切さを声に出し、命の尊さを肝に銘じるが、堂々めぐりを繰り返す…

見方によっては、私の苦悩は、とても恵まれた もったいない 贅沢なものとしても考えることができる。 若かりし頃の「悔しさ」を「プラス」に替え、努力を惜しまなく、ひたすら信念を通すことで、乗り越えてきたにも関わらず、何故に、できないのか? それが、わかれば問題などない。

私は医師にHSP:Highly Sensitive Person 「とても繊細で感受性の高い者」に該当する特性を備えているとの意見から、少し、それについて勉強したが、なんてことはない、自分の考えにひたり自問自答を繰り返す、些細なニュアンスの違いにも過敏であり、争うことを望まないタイプというカテゴリー化した表現にすぎない。 それを特別視する人もいるが、自意識が過剰な者も簡単にその種に捉えかねない。 中には、「自分はHSPだ。非HSPにはわかってたまるか っと優越感に浸るエゴイスト(その姿は非HSPである)の集いまであるから、おかしな世界だ。


「うつ」に有効とされる、脳に電磁波をあてる治療は、日本では、保険対象外であり、行っている大学病院も限られている。 さまざまな処方箋を体調のモニタリングを重ね、適量を随時、調整し続ける中、トータルバランスは何ともすんとも言えない。


浮かび上がる問いかけとは、自己の存在は、一体何を意味しているのか? 


「考える故に存在している」 というデ・カルトの言葉が原点になるだけで、苦悩の連続は、耐えがたい。 その中で、少なくともしなければならないことを進めるのには意味があるはずだ。 そういった思考がいずれ、また現実となるのであろう。 ただ「形」として現れるのには、かなり時間がかかるだけなのであろう。 そう願いたいが、私の敵は、あまりに
も傲慢で卑劣である故、許されるものではない。 したがって、とても醜い下劣なものであり、その対応には威厳を持って立ち向かわなくてはならない。


50代: 現実の重みを乗り越え、正義を貫いてゆく姿、第3・4の人生でも歩んでいることであろう… そう望むことが私のできることである。 希望は持てる権利であり行使すべきことである。


60代: 身体には支障もなく健康を維持しているはず。 おそらく全部白髪だろうが、私はあまり、しわのできない体質かつ内蔵はしっかりしている故、年令を気にしないはず。 精神は異質なままかもしれないが、細々と芸術表現(絵か音楽、それか両方)に取り組み始めているのではなかろうか。 そろそろ表舞台に出てもいいのではないかと試行錯誤を楽しんでいることであろう。

70代以降: 生命力は意外にあると思うので、それを有意義にする活動を行い続けているはず。



どこであろうとも、誰もが、それぞれの人生を懸命に歩んでいるものであり、それを評価するのは、その個人だけの「特権」である。 他の者がどうこう携わるゆかりはない。 侵害する者は全て正しく裁かれるべし。 その一方で、友好的に関わる人々は必然と現れ、どこかで繋がりをお互いが抱くテレパシーのようであり、その関係に魅了される。 不思議だが、想いはどこかで交わるようだ。 ひきあう力は潜在意識の中で育まれ実現する鍵を持っているのは当事者であり、するかしないかはその個人の選択にかかっている。 


現在の「敵」は、未来の自己を創り上げるために存在する故、闘うことを諦めてはならない。 「闘い」とは、「愛」を守るために、避けてはならぬ登竜門である。 そう神が私に告げて下さる





幼児には記憶にとどめる能力はまだ発達していなくて、4歳頃から徐々に記憶能力が稼働し始められると言われています。

仮に「私は2歳や3歳の頃を覚えている」と主張される方がいたとしても、それは4歳児以降に、親や周囲の人たちから「貴方が2歳の頃は○○だったのよ~」という話を聞きながら、当時の写真を見たりしたり、想像することによって復元されたものであり、必ずしも2歳の頃に焼きついた記憶とは言えない場合が多いようです。

私も3歳ぐらいの記憶は、この脳が覚えているのか定かではなく、断片的にしか、それも数の限られたものとしてなんとなく脳内に画像として残っているだけです。

記憶が定かになったのは、幼稚園の頃からです。 キリスト教(カソリック)の幼稚園で、毎週日曜には子供用の聖書に絵のカード(お年寄りが横断歩道を歩く際に手を差しのべて一緒に渡る絵 など)を貼ってイエス様にお祈りをしていました。 日曜が礼拝の日なので月曜が休日でした。 とても優しい先生方ばかりで楽しかった日々を今でも克明に覚えています。

小学校では絵がうまいと褒められ、私自身も美術を愛し、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとレオナルド・ダ・ヴィンチに憧れ絵を描き続け色んな賞を受けました。

また、哲学にも魅かれデ・カルトやカントを読み漁りました。

美徳の中の「正義」に強く魅かれ、将来は弁護士になりたいという思いで某私立中学への進学を目指し勉学に励みました。 もう一つの理由は、公立中学への進学は、男子丸坊主という校則なので、長い髪を切ることを拒んでいたものでした。 

小学校の頃は、声もか細く、内気でおとなしく、女の子の友達の方が多かったので、よく女の子と間違えられていました。 かつての男子は冬なら太ももの見える短パンが定番でしたが、私一人だけが、ラッパ(今で言うフレア ブーツカット)のジーンズで、いわゆるヒッピー・スタイルでしたので、先生に怒られていました。

私立中学への受験は、望みどおりには行きませんでしたが、「正義」への執着は変わらず、スタイルも一変して「ガリ勉」家になり、進学塾へ通い中2の夏で高校のカリキュラムを終えました。おそらく今でも進学塾はそのようなカリキュラムで灘高受験へ備えているはずです。

当時の公立中学は、テレビの影響なのか、非行に走る生徒が教師をひざまつかせ、教師は、大人しい生徒へ「校則」を理由に、体罰として八つ当たりする理不尽な世界でした。 そこで「権力」の醜さを味わい、私は、スタイル・話し方・態度等、全て替えて、いっきに非行グループの組織を立ち上げました。

中3では他の学校との抗争も経て地元で大きな組織が出来上がり、14歳で掴める「権力」をフルに使いました。しかし、当時の中学は、勉強ができても内申書重視なので、進学校への門は、教師の「権力」で閉ざされました。 平凡な高校へは、もちろんトップで入学しましたが、当人にとっては何の意味のないものであり、組織の方も「名前」だけが先走りし、どっかの寄生虫がやらかした「後始末」をつけろと、モノホンさんから呼び出しされ、ビビりながらどうすることもできず一人で出向くと、当然のことながら10人からボコボコで半殺しにされました。しかし、「よく一人で来れたな」と根情を買われ、意思に反しながら「株」が上がってしまいました。 もう、その頃には、あのような世界には嫌気がしていたのです。

周りからは変な期待を勝手に持たれ、それが嫌で嫌で仕方がなかったです。やはり、幼い時のように、なにものにも囚われられない姿が一番だと痛感しました。

幼い頃、それなりに描いていたプランがあったのです。 20歳の姿 27歳の姿 35歳の姿 37歳の姿  それ以上は考えられなかったです。 うつ病のことなど知る由もありません。

今から思い起こせば、なんやかんやでいろんな路を乗り越え、子供の頃に描いていた以上に37歳の時には「富」を築きました。 しかし、それ以降は何も計画などなく、そのまま突き進むだけぐらいしか頭にはなかったのです。

子供の頃には未知の世界が、今の私であるように思えます。

暗闇で明かりを必死になって探しても、それがどこなのか… 答えは自分の心の中にあるものだと頭で理解しようとも「無」が度重なり閉ざされています。

神が与えるこの試練の先には何が待ち受けているのか… いつ本当の意味で目覚めるのか…
この麻痺感は、どのようにしたら改善されるのか、できることを積み重ねているのですが、なかなか形に現れないもどかしさばかり…

残された路は、ただひたすらに闘うのみ

毎日毎日、諦めない思考で望むこと

やがて明かりが見えることだろう

いつか必ず


(これは私の日記です)