ジェイ・マキナニー著、高橋源一郎 訳、『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を読みました。新潮文庫です。




***






本と並べたブローチ達は、私のお手製です。
フェルトに刺繍をして、ボンドで強化した後、裏にブローチピンを縫い付けました。

シロツメクサとブーケとおリボンのブローチです。

自画自賛しちゃいます、可愛いー❤︎






***





二人称小説です。
主語が「きみは」で語られる小説。
珍しいですね。


小説の舞台はNY。大都会。
せっかく一流出版社に勤めているくせに、仕事に真面目に取り組めず、毎夜ナイトクラブに通い酒と薬と女に溺れる「きみ」が主人公。

年齢は若く二十代前半、嫁に出ていかれて一人暮らし。
田舎から連れてきた嫁は、モデルとして大成功を収め「きみ」を捨てて(嫁曰く)オデュッセウスのような男の元に走ってしまいました。
「きみ」は出ていった奥さんにかなり強い執着心を持ち続けていて、未だに二人の関係に、甘い「和解」、もしくは激烈な「破壊」を夢見ている。

職場の同僚達は、くせはあってもなかなかいい人達揃い…だけれど「きみ」は上司には徹底的に嫌われている。


くだらない見栄を張り、意固地になり、せっかく差し伸べられた手をはねつけ、やり直すチャンスをわざと見過ごし、悪友の誘いを退けずに受け入れ…どんどんダメな方向へと人生の舵をきっていく。
いや、舵すら切っていないかも?流されるままに潮流に乗って、ダメな方へダメな方へ…


わかっていても、とめられない。とまらない。むしろ推し進めちゃう。
なんてダメな人なんでしょう…でも、それが「きみ」。




この「きみ」の大都会でのダメな日常を描きながら、嫁への執着心の根源を明かしていく。
これがこの小説のあらすじ…ですかね。






***





本書、私は主人公への共感は持てませんでした。
たとえ「きみは」といくら呼びかけられても、

ーーーいや、それ、人違いです。私じゃありませんねぇ。

なんて思うだけで。



「きみ」は私の脳内では見事に「彼」に置き換わってしまいました。
そうやって、せっかくの二人称を、特に三人称小説とは変わらない感じで読み進めました。

「きみ」は理想と現実の狭間で、もがいていて。
くだらない見栄にしがみついていて。
他人を見下している…自分のことを棚にあげて。



最初は「この男、つまんねぇなぁ。絶対お友達になりたくないタイプだわ。」なんて、私は思っちゃってたのですが。

でも、根本的には主人公はいい人なんですよね。
ダメになっちゃってる元々の原因は、きっと、この人真面目すぎる、人生に対して真摯すぎるからなんじゃないかなぁなんて思います。
だから理想と現実の、折り合いをつけられない。

ずっと読んでいくと、なんだか主人公に情が湧いてしまって。

どうかこれ以上悪いことが起きませんように、お願いだからそっちの方向には行かないでください、周りの人達に助けを求めてください…なんて、祈るような気持ちになってしまいました。

親身になって彼を助けようとする人達の気持ちがわかります。
…私が感情移入しちゃったのは、むしろ主人公ではなくて、同僚達の方ですね。




それから、主人公の悪友。
主人公の悩みなんか鼻にもかけず、楽しいパーティに誘いにくる男。
主人公は彼の誘いを断れず、毎回つきあって、ますます泥沼にハマっていくのですが。

彼は、私は好きです。
何も恐れず、何にも囚われず、突き進んでいく快楽の追求者。
こうありたいなぁと願ってしまう、ある意味私には理想の人物です。




それに対して。
大都会にきちんと適応し生きる人達の中で、なんだか一人だけ取り残されているような「きみ」。

実際に目の前にいたなら、「バカね」なんて声をかけて救ってあげたいと願ってしまうような人です、私には。





てな訳で、なんだかハラハラしながら読み進めることになりました、この本。





小説の最後の方、とても良いです。
「きみ」の執着心の解決、それから、示される頼りない希望。

素直に「どうか「きみ」の今後がうまくいきますように」なんて思ってしまいます。
上から目線ではありませんよ?
人生に真摯に生きる人への、自然と湧き上がる、心からのエールです。
私には選べなかった生き方をする一人の人間への、対等な、尊敬の念です。








***







ところで。
二人称小説といえば。
私、以前にミシェル・ビュトールの『心変わり』を読みました。

本書、何故に私が手に取ったかというと。
一番大きな動機は、比べてみたかった、のです。
ビュトールの二人称と。




以下、二つの二人称小説について書きます。
ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』と、ミシェル・ビュトールの『心変わり』について。








ビュトールの『心変わり』においては、二人称は必要不可欠なものだったと思います。

『心変わり』ではタイトル通り、主人公の心変わりの過程が描かれています。

自分でも意識できない深い心の奥の方の動き、心変わりの過程を文章をつかって表すには、二人称以外にはありえなかったでしょう。
催眠術のような手法で読者を巻き込んでしまうしか、あの心変わりの過程を表す方法はなかったと思います。

一人称でも、三人称でも、ダメです。

まるで体験するようにして、あの世界に入り込まなければ、読者はそこに描かれた深い心の移り変わりを見ることはできない。二人称でなければいけない。

一人称…
「私」がいてはだめなのです。
私が意識できている浅い心しか表せない。
そこではない。

三人称…
「彼」のお話では、他人事です。
ああいう風に思っていたものが、こういう風な思いに変わった…そんなことを述べたって仕方がない。
どこからどこへ心変わりしたかではなく、その心変わりを起こすにいたった深い部分の心の動きが表されない。


二人称で…さらに言うならば、列車での移動の時間のお話であること、これが『心変わり』に描かれたものを表す必要不可欠な条件だったと思うのです。




対して『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』では。
これ、三人称でも、あるいは大分毛色は変わりそうですが、一人称でも…成立すると思います。

二人称小説として破綻はしていません。見事なものです。
しかし、私にはそれ以上のものは感じとれません。
あえて言うなら、二人称ということで珍しい感じがするとか、少し主人公と読み手が近づいた気分になれるとか…

主人公に感情移入できる人なら、この小説は人称が何で書かれてあっても、可能だと思います。
逆に私のように、主人公と自分は違うと思ってしまう人には、二人称の意味がない。

「きみ」の心の動きは、この小説では大切なものとは思えない。
ここで扱われる心は、自分で意識できる浅い部分をあつかったもの…という印象です。
(だからこそ、私には「きみ」は他人でしかありえなかったのだと思います。
「きみ」が例えどんな人であろうと、もっと心の深くをえぐった書き方だったなら、私はすんなり「きみ」になっちゃっていたでしょう。
…ビュトールの「きみ」も、私とはさっぱり違う人間でしたけれど。この場合には、私はすぐに「きみ」になってしまいましたから。)


二人称の文学的手法としては、ビュトールの場合、必要不可欠だったし大成功している、と思います。
対して、ジェイ・マキナニーの場合は…うまく書いてあるな、ちょっと毛色が変わっていてかっこいいな…というだけな感じですかね。

まとめると、この二つの小説は同じ二人称でも、まったく別のものを狙った、別の作品ですね。
そう、思いました。





***






なかなか面白かったです。
少し前のNYの夜の雰囲気も楽しめましたし。
通りすがりのちょっとした登場人物なんかも面白くて。

読んで良かったと思います。

都会の生活のもつ魅力は、田舎暮らしの魅力とは違っていても、やはり良いものですね。
懐かしい気持ちになりました。















***








読書感想文の記事をまとめたインデックスページです↓


他のページもよろしくお願いいたします。
過去記事へのコメント等も嬉しいです。