新宮一成 著、『ラカンの精神分析』を読みました。
講談社現代新書。
私が手に入れたのは古書で、これは古い表紙のものですね。
現行のものだと、もっとスタイリッシュでスッキリとした表紙になってます。
***
ご本の上に座っている猫もどきは、私の手作りです。
これ、本物の猫の毛を使っています。
うちの猫4号君の毛にちょっと羊毛を足して、パンチングで作りました。
呪いの猫人形…ではありませんよ。
猫毛フェルトっていうジャンルが、実際にあるんです。
本も何冊か出ていまして。
愛猫の抜け毛まで可愛くて捨てられない〜!っていう人の為、猫の抜け毛をフェルト化して作品にする方法が載っています。
私はまだ本は未購入ですが。
そのうち、手に入れたいなぁ。
***
ええと、この本、昨年末から読み始めて、ずっと今まで読んでいました。
通読2回。
…難しい本なんですが。
どうにも理解したい!って気持ちが抑えられなくて。
久々にガチで読みにかかってしまいました。
…が、やっぱりよくわかりませんね。
いつまで読んでいたって、わからないものはわからないと思うので。
一旦ここでストップして、次に進もうと思います。
今回の読書感想文は、他人さまに読ませられるようなものではなく、今現在の自分の理解状況の備忘録として、書きます。
まぁ、要は、完全なる自慰行為です。お許しを。
てな訳で、警告します。
興味の無い方は、ここから先はすっ飛ばして下さい。
どう考えても、こんなもの読むのは時間の無駄ですから。
かなりの長文です。
あ、でも、私のかわいい猫毛フェルトの猫ちゃんだけは見て行って下さいね❤︎
ニャー♪
ラカンの精神分析の解説書です。
いきなり冒頭の部分が、精神分析にたいした知識を持っていない私には、まるで魔術のようでした。
『マグロの夢』というタイトルで書かれてあるお話なのですが。
精神科医である著者と、その患者さんとのやりとりで。
著者がある夜マグロを食べたいと思ったけれど、それは食べられなかった。その日はそれで終わった。
そして、あくる日、病棟の患者さんが、夢でマグロをお腹いっぱい食べたと語るのです。
『前夜の私の満たされなかった食欲は、彼女の夢の中で、彼女によって満たされていた』
これって、不思議なお話…というか。
私にとっては、偶然の出来事を無理にリンクさせる魔術のようにも見えて、少し、気持ちが悪かったんです。
このエピソードは『ラカンの重要概念である他者の欲望を、無意識において担うという役割を与えられていたのである』ということになるそうで。
なんとも、不気味な本だなぁと、正直なところ、読み始めることになりました。
その次のタイトル『フランスへの道』では。
著者と患者さんの将来の夢が交換されてしまったエピソードが書かれています。
フランスへ向かいたかった患者さんは、イギリスへ。
イギリスへ向かいたかった著者は、フランスへ。
これ、自我理想の交換とか、欲望の転移とかいうものだそうですが。
これも初読時は気持ち悪かったです。
あ、でも、このエピソードには
『我々が抽象化された理想を追い求めるということは、そもそも我々が他者の欲望を身に負っているということである』
『人間はどんなことでも自由にあくまでも主体的に欲望できると考える方が、もっと秘教的な思想ではないだろうか』
なんて書かれておりまして。
これを読んだら、ああなるほどなぁなんて納得しました。
表面は胡散臭くて気持ち悪いものに見えるけれど、底にはそれほど不気味なものは流れていないみたいだな、なんて私は考えまして。
このまま、とにかく本書を読み進めることにしたのです。
恐る恐る。
さて、一度通読すると、まぁ私のバカな頭なりにも、それなりに、ああ精神分析ってこういう風なものなのか…とおぼろげな知識がつきますから。
この読み始めに感じた、なんとも言えないうすきみ悪さは、二度目の通読時にはそこまで根深いものではありませんでした。
一度読んで、気持ち悪さはうすれ。
再読して、また、別の感想に…ってところです。
ところで、本書に引用されているもの…
ルネ・マグリットの絵
ヒエロニムス・ボッスの『快楽の園』
プラトン 『饗宴』
聖書
禅宗の『臨済録』
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
ブルトン『ナジャ』
などなど。
これ、私の好きなもののオンパレードなんですよ。
これは…もしかして、この本、自分に親和性の高いものなのかもしれないなぁ、なんて考えてしまいますね。
私はナルシストですから。
自分のことを理解できるヒントが隠されているかも?なんて思っちゃうと、つい、ね。
結局は熱心に読み込んでしまいました、この本。
***
以下、本書を読んで思いついたことを、箇条書きにしていきます。
すいません、本当、この記事は、とにかく自分の為のものです。
それでも、多少なりとも人目に触れると考えれば、文章をまとめようとも思いますし。
そうすると、自分の理解も深まれば、自分の間違いにも気づけると思うので。
こうやって、書き連ねている次第です。もう一度、お許しを。
○エディプス・コンプレックスの重要性について。
ナンチャラコンプレックス…なんていう言葉、心理学用語が巷に溢れかえる時代ですから、よく聞きますよね。
エディプス・コンプレックスも同様に、私がしょっちゅう耳にする言葉でした。
が、これ、エディプス・コンプレックスは、それらの世に氾濫するコンプレックスたちに比べ、ずば抜けて重要な考え方だったのか…と、本書を読んで気づきました。
私達の、そもそもの始まり…ってのがそもそも、ブラックボックスなんですよねぇ。誰も自分が発生するシーンは見ることができませんし。
そのブラックボックスを埋めるものが、重要であるってこと、考えたこともなかったです、私。
てか、そもそも、始まりがそんなに重要なことなのか?ってことすらよくわからないんですけども。
この辺、も少し突っ込んで、色々と読んでみたいなぁ。
○本書において、(√5 - 1)/2 という黄金数が沢山出てきます。
これは、美術のほうで有名ですよね。黄金比。
1:1.618…の比率が美しく調和のとれたもの、と言われておりまして。
たくさんの美術品にこの比は使われております。
ラカンは「精神の動因でありかつ目的であるようなもの」をdas Dingとし、それはクラインの言うところでは「母の体内の始原的対象」であり、それが分析家に転移されたものは対象aとラカンが名付ける「患者にとって貴重でどうしても手に入れたくなるもの」になる…そうなんですけど。
で、この対象aとは全体(私と他者たち、私自身も含む全体)に見られている私、私自身には永遠に入手不可能な私…てことになるそうです。
(あ、ここら辺、本を直接に読まないと訳がわからないと思います。ごめんなさい。)
で、この対象aってのは、まぁとにかく大切なものであるらしいのですが。
この対象aがいかに素晴らしいかを、黄金数を使って説明しているんですよ。
これ、気持ち悪いです。
対象aが黄金数になる…というよりも、黄金数を導く数式に無理矢理対象aをあてはめているようにしか、私には見えなくて。
数学はかつて中世、魔術の中にありました。
なんか、この対象aと黄金数の考え方、まるで、カバラみたいに見えてしまいます。なんて言うか、新たなるカバラを作ろうとしているように、見えちゃって。
数学を神秘の世界に、魔術の世界に、また引き戻しているみたいに見えるんです、私には。
まぁ、とにかく、てな訳でこの対象aと黄金数の関係、私には嫌なもの…には見えるんですけど。
しかし、逆に考えると、これ、精神分析学って魔術をひきついでいるんではないかしらん、とも考えられます。
それに、錬金術なんかのシンボリズム、このあたりはあからさまに、(すくなくとも表面上)精神分析学と、似てますしね。
(そういや、ユングなんかはかなり宗教的な方向、オカルトな方向、錬金術な方向にも、手を伸ばしてますよねぇ…って、私、ユングは読んだことないのでよく知らないのですけれど。
まぁ、これは適当な発言です。)
いや、精神分析学が魔術をひきついでいるといっても、オカルトなお話ではなくて。
胡散臭いとか、そういうことでは、ないのです。
科学は錬金術から生まれた…なんてよく聞きますが。
私としては、それはちょっとだけ、ズレてるような感じを受けます。
錬金術からその精神を削ぎ落としたものが、科学ではないかなぁと。
錬金術…ちょっとあやしげですが、その精神は我々人類の精神の重要な部分を占めていると、私は考えています。
科学が抜け出した後、錬金術が担っていたその精神は、現代の魔術は当然として、また心理学の方にも受け継がれているのではなかろうかと。
そんなこと、私は思っています。
まぁ、本書を読み始めた時に感じた、魔術みたい…っていう感想は、単に「気持ち悪い」から「錬金術あたりと関連させて考えるのならば、非常に興味深い」ってところに、私の中では落ち着いたわけです。
◯本書の始めの方で、ブルトンの『 ナジャ』が引用されています。
『ナジャ』は、私の中では、この世で最高の恋愛小説です。
これほどまでに美しく切ない恋愛小説は、他に読んだことがありません。
しかしその切なさ、美しさが、どこから来ているのか、私にはずっと謎だったんです。
なんていうか、ブルトンとナジャの二人は、まるで(ユークリッド空間にある)二本の平行線で、どこまでいっても交わることはないだろうという、どうしようもない切なさを感じるんですが…それが何故なのかはわからないままでした。
本書では
『このような関係は、生活を共にしてゆく論理を含んではいなかった。生活を共有するには、互いを理解し合うためのいわば水平の関係の平面が必要だが、彼女は、垂直に舞い上がり、また垂直に落下するだけの存在だったからである。』
と書かれてあります。
なるほどなぁと、これはとても納得がいく…というか。
ストンと、腑に落とさせてもらえました。
ここだけのためにでも、この本、読んで良かったなぁ。
◯この本を読んでいると、魔術と数学と思想と信仰と心理学と芸術がごっちゃまぜになってしまって…。
あ、それは、私がうまくそれらを線引き出来ないからごちゃ混ぜになってしまうのであって、別に本書の記述自体がごちゃ混ぜかどうかはまた別の問題としてここで問うつもりはありませんですが。
自分がどこに立っているのか不安になってきますね。
正直なところ、気持ちが悪い…不気味に感じます。
それもこれも、私の頭の中が整理されていないからだと思います。
この辺の思想がカオスな状態で、今のところ、わたしの頭の中をグルグルと回っているような感じです。
もっと色々と読み込んで、それぞれの要素にケジメをつけて、要素同士を根拠なく自分の中でリンクさせて訳のわからない構造を作りだしたりしないように、警戒していこうと思います。
神秘主義的なところには、絶対に落ち入らないように、気をつけなくては。
オカルトは、傍から見るぶんには大好きなんですけれども。
自分がその中に飛び込むのは、絶対に嫌なのです。
***
浅はかな私が、浅はかにも思うことなのですが。
精神分析学って、はっきりとした根拠がない…ですよね。
統計から出たもの、ですから。
私、理系の学問の中では数学が一番好きなのです。
数学の証明って、一切の矛盾がゆるされないでしょう?
その厳しさが、好きです。
嘘はないんだ、という安心感がある。
(まぁ、数学は公理を仮定した上での展開…という限定された世界のものではありますが。)
そして物理化学は、数学を利用しながら理論を組み上げ、そしてその理論は実験が可能、再現実験も可能(厳密な意味ではそりゃ不可能ですけど)なもの、だと私は捉えています。
目の前で見せてもらえるのだから、これは私は信用できます。
対して生物学なんかは、統計からくるもの…という認識を私は持っているのですが。
そして、その上、扱っているものが個体差のある生き物ですから、再現実験がある意味で不可能なものであって、あくまで統計上から真実らしいものを推測する…ものなのではないかなぁと。
この辺になってくると、私の信用はかなり薄くなり、嘘がたくさんあるんだろうなぁ…なんて考えてしまいます。
生命は複雑すぎますからね、まぁ、そんなところで我慢するしかないのだろうとも、もちろん思っていますが。
これが、精神分析(いや、この際、心理学って言ってしまってもいいかも)までくると。
統計とか、どうやっているんだろう?かなり意図的に捻じ曲げられている部分が多いのではなかろうか?なんて考えてしまったりして。
私には、ますますに、根拠がないものにしか見えなくなってしまう…んです。
少なくとも、数学みたいに証明のできるものではありませんし。
いや、私、精神分析が全部嘘ッパチだなんてまったく思ってやしませんよ。
そこは誤解の無きよう。
実際的なレベルの話ではなくて、学問としての根源的なレベルのお話です。
そんなわけで、正直なところ、「こいつは信用出来ない」ってのが精神分析学への自分の思いです。
実際に今、医療の現場で精神分析がどういう扱いを受けているものなのかは知りませんけれど…本書を読んだだけの、繰り返しますがーーー浅はかなーーー私の考えでは、信用できませんのです。
まぁ、ただの一個人の印象です、あまり気にしないで下さいね。
しかし、思想としてみたならば。
引用されているヴィトゲンシュタインや臨済録、聖書。
それらの底の方に流れるものと精神分析学の考え方は同じ、それには納得がいく。
『私が何であるかを言うようにと私に迫っているものは…(中略)…私が言語を話すという事実そのものなのである』
『人間は、己の経験を示す言葉(シニフィアン)を駆使して、論理の世界を構成し、ついには自分自身を示す言葉(シニフィアン)を求めるに至ったが、この自己言及の関係だけは、論理的に保証されなかった。この部分に、言葉ではなく対象aが生じ、対象aが他者の欲望の対象であることにより、辛うじて、我々の経験を示す言葉(シニフィアン)の世界の、有意味性が保たれているのである。』
結局、我々はこんなに長い時間をかけても、聖書の時代から何も進歩していないのでは?
料理法は変わっても、その素材は変わらないまま…みたいな。
何も問題は解決されていない、というか。
我々は、
言語に囚われている
時間に囚われている
論理に囚われている
そんなことを、この本で、また確認させられたような気がします。
てな訳で。
ああ、もう!本当にもう!なんて言うか…、ファック!
わかっちゃいたけど、また行き止まりかよ。
うちら、どんだけ強固な檻の中に閉じ込められてんだよ?
出口ねぇーじゃん!マジどーすんのコレ???
…てのが、この本を読んでの、私の素直な感想ですね。
口悪くてすいません。私、ヒステリックなんです。
***
これは、なんとなく、ふと、思いついただけのことなんですが。
中原中也とか若山牧水とか種田山頭火とか。
私は彼等にやたらと共感してしまい、彼らの詩を読んでいると、泣きそうに胸がきゅーっとなってしまうんですが。
有名な歌を一つ。
『幾山川越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく』(若山牧水)
もしかして、彼らは、以下の想いを抱えていたのではないか?
なんて、思ってみたり、みなかったり。
彼らには。
別にこの世界が嫌いなわけではなくて、いやむしろ逆にとても好きで楽しく思っているのだけれど。
それでも、どうしても拭い去れない、何処かへ行きたいという強い欲動があったのではないかしらん?
閉塞した世界からの出口を見つけたい…というか。
そして、この世界が素晴らしいと思えば思うほどにかえって、それでも外に出たい気持ちが拭い去れないことで、さらに深い閉塞感に押しつぶされていたのではないかしらん?
この世界が生きるに値しないほど嫌な世界ならば、逃げ出したい気持ちになるのは納得できても。
生きる価値があると認めているのに、それでもなお逃げ出したい…っていうのは。
ちょっと、もう、これは、何か具体的なモノのせいにはできなくて、自分自身のそもそものはじまり、アレテーよりの在り方に絶望するしかないような。
逃げ出す先を、死とするなら事は単純なんですが。
自分の死は、自己のものではないし。自己の外にあるものだし。
死では、中座ではあっても、世界からの逃亡=自由=目的の達成にはならないんじゃないでしょうかねぇ。
そもそも、この世界の全体をとらえようとすることすら、全体が自身を含むものであるからには、まず不可能なわけで。
そんなことしようとしたら、
『もし世界が私の経験でしかないとすると、その経験の中には、私が確かにその経験をしているということを教えてくれるような何ものも存在しないことになる。したがって、経験の主体としての私の存在は消し去られ、経験そのものとしての世界だけが残る』
私は世界の外で、その世界を裏張りするものとして存在する…だけのもの、(或いは、大切なもの)…になるわけで。
そこからさらに逃げ出すって、どういうことなんだろ???
何がしたいかすら、訳がわからなくなってしまいます。
神様にでもなりたいのか?
そんな中でも生きていかなくてはならないってのは、ちょっと厳しいなぁ。これも業ってものなのでしょうか…?
そして、私、ここまで「彼らは」なんて書いて、詩人たちがそう考えたのではないかしらん?
と書きましたが。
こりゃちがうな。ただの自分の想いを、無理矢理「彼ら」に押し付けただけだな。
「彼ら」は、「私」です。そう感じているのは、「私」ですね。
***
人間って、まるで閉じた窓から外に出ようとして何度もガラスにぶつかる、バカな虫みたいだな。そうやって、自分と世界の閉じた空間を確認し続けているみたいです。
憐れですねぇ。
…でも、それでも!
やっぱり、私は外に出たいんですけれども…
いくら、逃げられませんって目の前で証明されたって、諦めきれないんですけれども…
バカな虫でもいいから。
しかも。
誰かに連れ出してもらうのではなく、私は自力で、この世界の外に出たい。
それは、あまりに大それた望みなのかしら?
…ふぅむ。
私、希望は失いません。
人生の最期の時までしつっこくロゴスに喧嘩売り続けてやるもんねーだ!
だって、私、女の子なんだもん(*・∀-)☆キャピ♪
***
虚しい鼓舞と冗談はさておき…とりあえず、実際的には、次はソシュールとフロイト、また読んでみるかなー。
なんて、今後の読書計画を企てています。
しかし、この本、難しすぎる上に、なんか納得いかないし。
あれですね、数学の公式集(証明無し)でも見てるみたいでしたよ。
読むの疲れたー。
こんな難しい本、しばらくは読みたくないよー。
お腹いっぱいです、とほほ。
ラカンの精神分析 (講談社現代新書) 907円 Amazon |
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