「ユヅは新たな航海へと出発していた」
「ユヅは、“引退した選手”ではありませんでした。完全なコンディションを保ち、今すぐにでも試合に出られる状態でした。そして若いスケーター達の前で、リクエストにこたえて次々とプログラムを披露してくれたんです。しかも試合と同じジャンプ構成で、パーフェクトの演技。引退した先輩が来てちょっと滑ってくれるんだろう、くらいに思っていた子どもたちは、あまりにもレベルの高いものを見せられて言葉を失ってしまいました」
なぜこれほどまでに素晴らしいコンディションを保てるのかーー。オーサーは、思わずそう質問した。
「ユヅはこう答えたんです。『コンディションを保つのは本当に大変です。でもファンのためにいいスケートをしたいんです。僕は応援されているからこそ、常に最高の滑りを見せる責任がある。僕だけが出るショーであればなおさら、その責任は僕一人が背負わなければならない。真剣なんです』と。ユヅは、プロになったからプレッシャーから逃れてスケートを楽しみたい、なんていうタイプではありません。新たな航海に出発したんだな、と納得がいきました」
「ユヅがやってみせると、カーブも傾斜もスピードもすべてが違う」
羽生は滞在中、クリケットクラブの名物でもある基礎スケーティングのクラス(スロトーキングクラス)にも参加した。11年前に羽生が初めてトロントに来た時は、オーサーやトレーシーが先頭に立ち、羽生が後をついて滑った。しかし今回は、コーチ2人がリンクサイドで見守るなか、羽生が先頭に立って約10名の選手たちを率いた。
「本当に面白い現象でした。ストローキングのクラスでは、僕やトレーシーは氷に乗る必要がありませんでした。というのも、ユヅがステップやスケーティングをすべて、8年間一緒にやってきた日々の通りに、そのまま実践してくれたからです。ユヅはこれらの技術の利点を完全に理解したうえで、3年たった今なおそれをルーティンでこなしていることが分かりました」
そして、こう続ける。
「少し技術的なことでいうと、例えば8つのモホークステップを組み合わせたサークルステップがあるのですが、これを完璧な足さばきでやってみせるわけです。このステップにはすべてのエッジの乗り分けと、同じ軌道のなかで左右の足を換える動作が入っています。とても簡単なステップなので、選手からすると『こんなの試合のステップシークエンスでは使わないよね』という動きなのですが、ユヅがやってみせると、すごいスピード、深い傾斜、大きなトレース、そして一歩の伸び、すべてが違う。子どもたちはそれを見て、簡単な技を美しくやることが世界の頂点に繋がったのだ、ということを体感したのです」
そして最後、今後のスケート界についてこんな話をした。
「ユヅは、長い間トップに存在し、スケート界をけん引してきました。
毎年、新しいチャンピオンは生まれるものですが、でもユヅのような存在にはなり得ません。ヨナや真央も、彼女らに変わる存在というのは、そう簡単には現れませんよね。
ただユヅが生まれたのは偶然ではありません。
彼が、正しい方向性を信じ抜き、努力し続けた結果なのです。そしてユヅはその努力を、いまもやめていない。
年齢を重ねるほどに多くの努力が必要になっていきますが、彼はそれを続けるでしょう。いま再びユヅを見て確信したのは、ユヅが唯一の存在だってこと。そのコーチであることが、僕の何よりの誇りです」