ローマ8:26-39
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

私は、いつも元気で前向き、何でもうまくいっているように見えるとよく言われます。愚痴や不平、不満を言うのがあまり好きではありませんから、そう見えるのかもしれません。私は元々思いっきり暗い人間だと知っているから、そういうものを言い過ぎると、自分も相手も暗くなってしまうので言うのを避けているのでしょう。自分の内は、どうしようもないくらいに弱音を吐きまくっています。いい子にならず、我慢しないで弱い気持ちを神様に打ち明けることを心がけていますが、時に、そうしてしまうと自分が怖くて打ち明けられなくて悶々としていることもあります。悶々とした気持ちもまた、イエス様は理解してくださってとりなしてくださるのです。私たちのうめきの祈りを聞いてくださっているのです。

私たちは、正しく生きることは出来ません。そうさせてくださるのは、神様なのです。私たちの言葉にならないうめきを聞いて、心に平和を与え、義をなす力を与えてくださいます。自分を否定する何者もいません。自分がしようと思うことをするのもしないのも自分で決めていいのです。誰も罪に定めたりしません。

悶々とした心を持ちながらでも恐る恐る一歩踏み出すときに必ず道があります。迷いつ、こけそうになってもイエスさまが守ってくださいます。涙を流しながら歩くこともあります。歩けない日もあります。けれども、イエスさまはお見捨てになりません。ただ、行く先が見えなくて、おびえながらでも、それでも歩きます。ただ歩くという恵みをいただくかぎり、歩くのです。

人生の終着点で気づくことは、イエス様の愛に生かされたことだけです。その愛から引き離されることがなかったという確信は、永遠の命となって輝くのです。その確信は、揺らぐことがありません。その証拠に、私たちは、どんな状況の中でも命が与えられ、生かされているのですから。

生かされていることこそ、神様に愛されている目に見える証拠です。神様の愛に生かされている限り、その愛から引き離されることは決してありません。

わたしたちが、その愛を豊かに感じて日々生きられるようにイエス様、助けてください。


                                                   


ヨハネ6:48-51
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

日本の習慣では、「いただきます」と「ごちそうさま」と食事の前と後でお祈りをします。どこの国を探しても食前のお祈りはあっても、食後の祈りをする国は私の知る限りありません。本当にいい習慣だと思います。食事は、生きた命を私たちが生きるためにいただき、それが地となり、肉となり、私たちの命をつないでくれます。食べるという行為は他の生命をいただくということです。

今日の箇所で「命のパン」という言葉が出てきました。命のパンとはイエスさまそのものです。イエスさまをいただいて私たちは生かされているのです。イエスさまを頂くということはイエスさまが私たちの命になるということです。イエスさまが私の命になるとはどういうことなのでしょうか。みことばそのものに私自身がなるということ、イエスさまを生きると言うことです。

その命に生かされていることを感謝いたします。イエスさまが私の命になってくださったことは、私にとって感謝しか表せません。感謝の言葉もないくらいの感謝で沈黙しかありません。イエスさまの命は私の中で光りとなって輝いています。その命を深く感じるときに尽きない喜びで満たされていくのです。

イエスさまの命に生かされることは本当の命に生かされることなのです。


ヘブライ1:9-10 神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。


というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことだったのです。


おととい、友人とアーモンドの花を見に行きました。アーモンドの花は聖書にも出てきます。桜の花と似ていて、桜より少し早い時期に咲きます。アーモンドは、聖書では、神さまの愛に満ちた眼差し、祝福や再生復活のシンボルです。

行った日は、寒かったですが、アーモンドの花を見て復活祭に向けての希望を見たような気がします。


さて、今日は、イエスさまが神の恵みですべての人のために死んでくださったというところに注目しました。恵みと聞くと何かうれしいことや楽しいことを思います。しかし、それらは恵みであるには違いないのですが、苦しみや悲しみも恵みとして与えられています。死というものですら恵みとして与えられていることは、神の恵みは私たちの思いを超えることを示しています。

人は神の恵みをはかり知ることができないのです。


イエスさまの死がどうして神の恵みといえるのでしょうか。イエスさまの死は復活へ、そして、人々を生かす命になられました。まるで、一粒の麦が地に落ちて死んで、多くの麦を実らせるように。

イエスさまはただ救いに至る道をひたすら完遂されたのです。


今日、WBCのインタビューでイチロー選手が自分たちにリーダーはいない、みんなが思いを一つにして働けば、それでいいと言っていました。


お互いの生き方に学びあう姿勢が大切だと思いました。イエスさまの生き方に私たちが自分たちで学び取ってお互いに生きるとき、神さまがすべてよいものに導いてくださるのです。


イエスさまとイエスさまと共に生きたいと願う仲間と共に励ましあって生きるとき、神の国を身近にみるのです。


イエスさまは神さまの恵みによって私たちのために死んでくださいました。わたしたちはその恵みを忘れないでいたいと思います。