ローマ9:31-32 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。


なぜですか。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。


キリスト教が、道徳論や精神論ではないと本当に確信したのはずいぶん大人になってからでした。それまでは、道徳論的な、精神論的な知識と、そうでない、命の信仰が拮抗しており、今、一つ、自分の中で一つになっていませんでした。頭が優先する信仰に心が抑えられるという感じでした。


道徳論や精神論は、必要だとは思いますが、それらは神さまに深く繋がって、満たされているときに初めて可能になるのだと思います。


しかし、ついつい、私たちは、道徳論や精神論に偏る信仰を求めがちです。これらの信仰は「なければならない」信仰で自分を縛り、人々を縛るのです。


存在の大事さよりもルールが優先されます。人々をルールで支配するのです。ルールは人々が仲良く暮らすための道具なのです。


むしろ、一人一人が存在することを許されているのが先にあって、そして、ルールがあるのです。


私たちが存在するのは神さまがいらっしゃるからです。神さまがすべてを支配されるのであり、人がルールで人を支配するのではありません。


わたしたちが存在を許されているように、お互いにその存在を許しあい、神さまの恵みに感謝して生きたいと思います。




コリント1 9:16
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。


わたしは、どうして聖書ブログをするのでしょうか?本当のところは謎です。どちらかというとめんどくさがりでブログを書くのは苦手なのです。


でも、聖書ブログは、飽きずに続いています。これも不思議ですが、自分の受けた恵みを伝えないとなんだか、不幸になってしまうような気がします。


別にこのブログをしたからと言ってわたしの業績になりません。それなのに、なぜでしょう。


福音を語らずにはいられない私があります。福音だけを伝えたいと言う思いに駆られるのです。


福音を語ると自分も恵まれてそれを聞く人々も恵まれます。本当にただで幸福になるんです。


怪しくないですよ。いや、怪しいって?怪しくたって幸福になれたらいいでしょう?


自分が幸福になれる言葉をいっぱい食べて、信じて生きたいと思います。それでみんなが幸福になったら、もっといいです。



パウロの福音を伝える熱い思いにはまだまだ至らないけれど、ちょっと分かってきたような気がします。


福音を語れる恵みに感謝します。


エレミヤ23:16-17
万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉でなく、自分の心の幻を語る。


私を侮る者たちに向かって彼らは常にいう。「平和があなたたちに望むと主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって「災いがあなたたちに来ることはない」という。


エレミヤ書の神さまは怖くて監視されているような気がします。エレミヤにアーモンドを見せて、ヘブライ語で駄洒落を使って神が見張っていると言ったように、そのとおり、神さまの言葉は怖いです。でも、このエレミヤ書の神さまは、愛に満ちて子供を真剣に育てようとするお父さんの眼差しなのだと思えるようになりました。アーモンドの花を見てからそう思えるようになったのです。エレミヤの頃はバビロン捕囚の前で人々は不信仰に陥り、腐敗した生活がはびこっていました。神さまは、非行に走った子供たちを厳しくさとし、正しい道に立ち返らせるために体当たりで人々に関わります。

どうしようもない子供たちに痛みを覚えつつも、子供の間違いを指摘しつづけます。


ここまで真剣にあきらめずに叱る方の言葉には深い愛がいっぱいです。


今日の箇所は、神さまのことばをよく聞き、そのまま伝えることが必要だと思いました。人々によく思われたいという思いが、媚びを売り、神の言葉を遠ざけるのです。


厳しい言葉も神さまの愛です。この厳しさは人々を育てます。厳しさをもった神の言葉を憚ることなく、自分と人々に語ることで新たに生きる力になります。厳しさは、苦しみや辛さも伴います。


エレミヤのように神さまも辛さを堪えて人々に忠告しておられます。子供への愛のゆえに苦しみがあります。


神の厳しさは、貫かれた真の優しさです。


ただ、神さまの言葉をそのまま聞き、伝える者とならせてください。