イザヤ7:9,11

エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたたちは確かにされない。


主なるあなたの神に、しるしをもとめよ。深く陰府の方に、あるいは高く天のほうに。


ユダ王国の王様アハズは、イスラエル王国(エフライム)の王様ペガとアラム王国レツィンに攻められたとき、彼らはユダ王国を侵略してタベアルの子を王様にしようとしました。そのとき、ユダの人々は不安になりましたが、神さまは、そのようにならないとおっしゃいました。エフライムは滅びて、エフライムの頭は、サマリアに、サマリアの王様がペガになると言われました。さらに、信じなければ確かにならないと言われたのです。そればかりでなく、神さまはしるしを彼らに与えようとされました。もっとも低いところともっとも高いところに。このしるしは人の思いを越えていました。のちに来られるイエスさまのことだったのです。神さまは不思議なことを常になさいます。


人は悪いことが起きると悪い方に考えがちです。しかし、例え、悪いことが起きても、その悪いことに神さまの意味があって、そのことを通して不思議な業を行われるのです。人知を越えた業というのでしょうか?私たちはすぐにいいか、悪いかを判断して、失望したり、諦めたり、無関心になったりしてしまいます。しかし、神さまの思いはいつも私たちを本当に幸せにすることです。人生に与えられるすべてのことはこの世的に悲しい、つらいことがあっても、そこには神さまの意味があるのです。そして、神さまは最高の人生を与える約束をしてくださっています。神さまは神さまをまっすぐ信じてしたがっていくとき、この世を越えた喜びをくださいます。それを信じるかどうかは私たち次第です。信じる者に神さまは悪いようにはなさいません。それどころか、それぞれの信仰に応じて、最高の相応しい人生をくださるのです。ただ、感謝しかありません。
アモス8:11
主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでなく、水に渇くことでなく、主のことばをきくことのできぬ飢えと渇きだ。

旧約聖書の神さまのことばには、厳しいものがあります。しかし、それは優しさだと思います。神さまはすごく優しい方だからです。神さまは子供が正しい道を歩むように真剣に願っておられます。その厳しさはわたしたちの人生が本当に幸せになるための励ましなのです。厳しい神さまの言葉を聞いたときほど恵みがあることを知っておきたいです。


私たちは神さまの言葉がなければ生きていけません。しかし、私たちの心は自分のことでいっぱいになり、神さまの言葉を聞けないでいます。神さまの言葉は知識ではありません。道徳でもありません。命なのです。それがなくなると、物質的な飢えより深刻に苦しむことになります。神さまの言葉をいつも食べられるように心をからっぽにしておきたいと思います。

テサロニケ1 5:23 どうか、平和の神ご自身が全く聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。


今日は久々に風邪を引いて熱っぽかったので一日休みました。このところ仕事に追われ、いろいろあったので体が疲れていたようです。それで、いっぱい寝たので寝られません。

しんどくてご飯を食べられなかったけど聖書だけは読みました。心も魂も体も欠けたところのないものにして守ってくださるということを少し考えてみました。心も体も魂も病気にならずにいつも健康でいられるという意味ではないと思いました。そういうことではなく、人生、 健康なときも、病気なときも、どんなときも、あるがままの自分でいられるように守ってくださるということだと思いました。私たちが完全な者になるとは、神さまがくださった自分の存在をそのまま受け入れるということです。つまり、自分の長所も短所もそのまま正直に認め、素直でいることです。神さまは私たちをそのままでよいもの、愛するものとして造られました。だから、私たちの存在も人生もすべてがよいものなのです。何ごとも自分で決めつけず、自分が喜びをもって生きられる生き方に徹底的に囚われて生きるとき、神さまは、最後のときに、非のうちどころのないものにしてくださいます。つまり、自分をあるがままに神さまに捧げていくとき、神に対して何の妨げも壁もないまっすぐなものとしてくださるのです。

素直さは神さまの宝物。いつも私のすべてが神さまに素直でまっすぐにいたいです。