(宋)て爵位が≪公≫だって。


驚いた。



格でいえば、


(晋)の≪侯≫


(鄭)の≪伯≫


(楚)の≪子≫


なんて比べもんになんね。


やっぱ【商】の遺民だからかね。


周としては。



しっかし、おもしろい。



※追記


爵位の順(周のね。)


公爵

 ↓

侯爵

 ↓

伯爵

 ↓

子爵

 ↓

男爵


いやはや本て面白いもので。


個々が独立しているようで

そうでない。


「子産」

これは鄭の賢臣であり、

孔子の思想の本となる。


北の晋、南の楚に挟まれ、

向背を繰り返すしかなかった

鄭を安定させ、中国史上初の

成文法を作った。


漁父

漁父





小国の宋の国を三代に

わたって支えた宋の賢臣

【華元】を描いた「華栄の丘」

漁父


上の二つは、春秋・戦国の時代の

英雄たちの中でも特に注目される

大国の賢臣、例えば、斉の桓公を

覇者せしめた、管仲、晏嬰、晋の

文公を支えた介子推、あるいは

孫武、呉起、孔子、孟子など諸子

百家達。


これらをもとにした作品には、

必然的に会う機会が多くなるが、

小国の賢臣をもとにした作品には

なかなか出合い難い。

見たとしても、普通、「春秋五覇、

戦国の七雄ではないから」と、

読む機会を逃すのではあるまいか。


しかしながら、小さい国をその時世で

保つのは並々ならぬ苦労がある。

そこが面白い。





漁父

ここで「伍子胥」。


伍子胥は所謂、「屍に鞭打つ」で

有名な人である。



三作品は作者も違うし(尤も上二つは

同じ人によるものだが)、

一見、関係ないように思われるが、

つながっている。


時代で言うなれば、

「華栄の丘」

   ↓

 「子産」

   ↓

 「伍子胥」


「子産」に晩年の【華元】が

出てくるし、

「伍子胥」には晩年の【子産】

が出てくる。


何が面白いかと言えば、

例えば、

「華栄の丘」、「子産」。

この二つは宮城谷さんによる

ものであるが、「子産」に出てくる

【華元】はどことなく印象が違った。


また、「子産」、「伍子胥」は

著者が前者は宮城谷昌光、

後者は伴野朗さんであり、

二人の感じ方、想像力の

違いが出ている。


尤も「伍子胥」には、子産が

出てくるが、「子産」には、

伍子胥は出てこないので、


宮城谷さんが「伍子胥」に

どんな印象かは計りえないが…。




商品の宣伝ではないが、

ここら辺を読むのなら、


「華元の丘」(宋が舞台)


「子産」(鄭が舞台)


「伍子胥」(楚、呉越)


の順で読むと分かりやすいと

思う。




孔融に関しては、

しばし休憩。


『子産』でも話題にした、

【鄭】と言う国に関して。


周は封建制を布いた。


周王室の姓は姫。


周の分家として、

≪鄭≫≪魯≫≪呉≫≪衛≫

≪晋≫などがある。


爵位があり、

公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵

の順であり、

≪鄭≫は伯爵。


始めは≪晋≫、≪楚≫など

比べ物にもならないくらいの

国力があったが、衰退。


大国に挟まれ右往左往。


子産の代に一時取り戻すが、

その後晋の韓氏に滅ぼされる。





又、周は武力で商(殷)を討った後、

その子孫の微子を封じたのが

≪宋≫であり、前の王朝の支配者

の一族であるから他の諸侯の目は

冷たい。


一度王が出た姓は再び隆盛しない

などと思われており、その考え方が

≪宋≫にはあったらしい。


≪宋≫の賢臣が華元。



先ほどの孔融伝で、

『魯の叔孫得臣』とあったが、


叔は三男を意味し、

孫はそのまま孫、子孫を指す。


献帝が許に都すると、


孔融を召して将作大匠に

任命。


※将作大匠

…建築をつかさどる。

        二千石


その後、少府に栄転。




あるいは董卓の乱で

孔融が直言していた

のを見ていてか。


※少府

…山海の産物の税、

天使の給費を司る。


この下に尚書令とか。




朝会で天使の下問が

あるたびに、融は正論

を吐いて決着。


※下問…要は自分より

年、身分が低いものに

ものを尋ねること。


この場合は天子が

臣下に。




ほかの大臣はみんな、

名ばかりで実力を伴わない。




以前に太傅の馬日磾(ばじつてい)が

山東に使者に立ったことがあった。



※太傅

…天子の教育係で、

 三公(大司徒、大司空、

大司馬)の上



淮南まで行った時、

馬日磾は淮南の袁術に、

取り入ろうとした。


袁術は、馬日磾を侮り、

ついに、勅使の身分証

的な杖を奪い取った。


馬日磾は立ち去ろうと

したが、袁術はそれすら

許さない。


それどころか、自軍の

将軍になれと。


馬日磾は深く恨んで、

血を吐いて死んだ。


馬日磾の棺が帰ってくると

朝廷では、特別の礼遇を

しようとした。


しかし孔融は一人反対した。



融が言うには、


「馬日磾は太傅の位に

いたのに東方に行って、

使命を果たすべきで

あったのに、姦臣(袁術)

に媚び諂い、そのいいなり

になりました。


袁術が奉る上奏文、任命書

にはすべて馬日磾の署名が

入っております。


下の者にへつらい、お上をな

いがしろにし、悪心を持って

君に仕えるものであります。




《ここからは簡単に言うと、

善者》




昔、斉の国佐は晋軍に

和を講じに行った時、

脅迫されましたが、

決してひるみませんでした。


その宜僚は白刃を突き付け

られましたが、顔色一つ、

変えませんでした。


王室の大臣たるものが、

脅かされたからといって、

言い訳になりましょうか。


それに、袁術の反逆は、

一朝一夕の事ではありません。


馬日磾はその反逆者に、

同調して、一年以上も

交際しております。


漢の法律には、

罪人と三日以上の付き合いが

あった場合、すべて事情を

知っているとみなされます。




※つまりそいつが罪を

犯したことを知っても

付きあているとみなす。





《ここからは悪者》




魯の叔孫得臣は死んだ

ことを記すのに日付は

書かれておりません。


公子遂弑逆した企てを

知りながら、黙っていた

ので日付を書きません

でした。



鄭の人は幽公の乱を

討ち平らげると、君を

弑した子家を粗末な

棺に入れ葬りました。



陛下は旧臣を憐れみ

給い、言って罪に問うに

忍びずにおられますが、

その上に礼遇を加える事は

なりませぬ。」


と。朝廷はこの意見に従った。






最後のは、

旧臣であるから、可哀そうなので、

罪には問わないにしても、

その上に礼遇を加えることはない。


と。


弑…漢字の意味には

下の者が上のものを殺す。


子が親を弑(しい)す。とか

臣が君を弑す。とか。



さて孔融。


北海郡で6年勤める。


劉備が上奏して、

青州刺史になった。


建安元年(196年)、

袁紹の子袁譚に

攻撃された。


攻撃は半年続く。


兵士は城内に、数百人。


矢は雨のように降り注ぐ。


矛や槍が城内で斬り結ぶ。


しかし、孔融は机にもたれて

書を読み、平素と変わらず、

談笑。


そして城は・………………


……………………………


……………………………


………………………陥落。


思わず、

『陥落するんかい!』

などと突っ込みたくなる。


「敵兵が来ても恐れず、

談笑していた」なんて、

普通強いやつの話だし…。


こういうところに欠陥があって

妙に人間味があって面白い。


結局、東山まで逃げた。


妻子は袁譚につかまった。