周代の爵位は公、侯、伯、子、男があり、


【宋】

公爵


【晋】

侯爵


【鄭】

伯爵


【楚】

子爵


男爵


の順。


で、「○〇公」とか出てくるけど、

これは君主が死んだあと、

その業績に応じて臣下が決定する

もんなんで、かぶることもある。


在位中は「晋公」や、

「楚王」と呼ばれる。


死ぬと区別するために

つけると。




例えば、「斉の桓公」だけど、

「桓公」はほかの国にもいる。


悪い意味でつくのが、

「霊、厲」なんかがつく。


「霊」、「厲」は在位中に悪政を

していた君主につく。


後漢がいい例。

霊帝は官位を売ったり、

宦官に操られたり。




最後にいい話をひとつ。


楚の共王のはなし。


共王は若くして王位に

ついたため、失敗もあった。


死ぬ間際に重臣に、


共王「私には徳がなく、

エン陵の戦いで軍を失い、

社稷を辱め、みんなに憂いを

与えたことが多かった。


だから、私の諡は『厲』か

『霊』にせよ」と言った。


重臣は悪政をしていたとは

思ってはいなかったので、

困り果てていた。


そこで、令尹の子嚢は

重臣を集めこう言った、


「諡のことですが、


王は大国の君主で

ありながら、御自身の

過ちを知っておられた。


恭しいことではないか。」


と言って、『共』に決めた。


『共』は『恭』に通ずる。

前回

「後漢書」<孔融伝>②ーⅥ



つづき。


ながいよ。


孔融が朝廷にいた時、


論者の多くは、刑罰で

肉刑を復活すべきと言った。



※肉刑…入れ墨とか、鼻切り、足切り

      宮刑などで、秦代にあったが

      漢代に廃止した。



これに対して、融が言う、



「昔は人情が厚く、

善人悪人の区別が

ありませんでした。


役人は正直で、

刑罰は軽く、

政治に間違いが、

ありませんでした。


人民が法を犯しても、

みな、自分で責を

負いました。


世が末になりますと、

風俗が乱れました。


政治は風俗を悪くし、

法律は人民を虐げます。


曽子〈孔子の弟子〉が、


『上、その道を失し、

民の散ずること久し』


と申した通りでございます。


この時に、昔の刑罰で人民を

締め上げ、罪人の体を傷つけ、

投げ捨てるというのは、所謂、


『時と消息する』


道ではございません。


殷の紂王は冬の朝、

川を渡ろうとする人民の

脛を切り、天下から無道の

君と呼ばれました。


そもそも九州の地には、

千八百人の君があります。


もし各々の君が、一人ずつ

足切りの刑を施したとすると、


天下に常に千八百人の紂が

居ることになります。


風俗がよくなることを望んでも

かなわぬことであります。




それに肉刑を受けた者は、

もはや生きていく望みを失い、

死ぬ事をなんとも思いません。


そうすると、たいていの者は、

悪に走り、再び正道に戻る事は、

ありません。



※以下には肉刑を受けて

天下に災いをもたらした

者を列挙。



夙沙衛(しゅくさえい)は

荘公に背き、斉を乱し、


伊戻(いれい)は事実を

偽って、宋の太子を、

自殺においやり、


趙高・英布は世に

大きな災いを惹き

起こしました。

(趙高は宦官、

英布は黥布とも

言い、入れ墨を。)



そういう例を見ると、

肉刑は人が悪事を

続けることを、止める

ことにはならず、

却って善に立ち戻る

道を閉ざすだけの

ものです。



※以下には肉刑を受け

た優れた人を列挙


鬻拳(いくけん)程の忠臣


(楚の臣で、楚の

君を脅迫して悪事を

諫め、自ら足を切った。)



卞和程の正直者


(楚の玉工で二代の

王にわたって名玉を

献じたが、信じられず、

両足を切られた。)



孫臏(ソンピン)ほどの知恵者


(龐涓に妬まれ讒言され足を

切られる。)



巷伯(こうはく)ほどの無実の人


(巷伯は官名、宦官。讒言で

殺されかけた。)



司馬遷ほどの天才


(李陵弁護により宮刑に)



劉向程の博学の士


(漢の宣帝に黄金鋳造を

約束して、ならず、刑に。)



でさえ、一度刑を受けた身に

なれば、他者との交際は、

一生かないません。




かくなる上は、


※以下には一度罪を犯したが、

赦され功を成した者を列挙。




太甲が正道に立ち返り、


(太甲は殷の臣。

始めは暗君で放逐されたが、

三年後、悔いて名臣となる。)



秦の穆公は覇者となり、


(穆公は晋に大敗したが、

将軍を咎めることをせず、

強国になる。)



南雎(なんしょ)が骨と皮に

痩せ細り、衛の武公は、

酒を飲んだ事を後悔し、


陳湯が都頼水のほとりに

単于を斬り、


(命と偽って兵を出し、

結果成功した。)


魏尚が一度微罪で

免官されたが、復帰し、

辺境を守った



様な手柄は立てようにも

立てられません。


漢が悪を悔い改める道を

開いたのは(肉刑を廃止)、

すべてこれがためであります。


されば明徳の君は遠い先々を

深く考え、短を捨てて、長を探り、

軽々しく政道を改めないので

あります。」と言った。


朝廷は最もと思い、法改訂を

思いとどまった。





昔の状況と、今の状況を

考え、漢は肉刑を廃止した。


だのにまた復活させようと。


それは違うと。


歴史上の人物が、

滾々と湧き出てくるよな話。


人格的にいいひとでしょ。



孔融の詩

趙苞、字は威豪




甘陵郡の人。




従兄の趙忠は、


中常侍(宦官)


であり、趙苞は


身内に宦官で


権勢をふるった


ものがいることを、


深く恥とし、趙忠と


交際しなかった。






当初、州郡の役所に勤め、


孝廉に選ばれ、再度昇進


して、広陵県の県令となる。




三年勤めたが、公平で


けがれがない政治であった。




郡が彼の善政を上に申し、


かれは遼西郡太守に


栄転した。




刑罰は厳かで、厳しく、


その名は辺境の民の


間に鳴り響いた。






赴任の翌年に、母と妻子


を迎えにやった。




もう少しで郡につく。




しかし、途中、


鮮卑一万が掠奪しに侵入。




苞の妻子、母も人質に。




賊(鮮卑)は人質を車に乗せ、


郡に攻め入る。




苞は歩兵騎兵二万を指揮して


対陣。




賊は苞の母を引き出して苞に


示す。




苞は悲しみ泣いたが、


母に向かって言った。




苞「子として申し訳ござらぬ。


微禄ながら朝夕孝行したいと


思ったばかりに、図らずも


母者は災難に遭われました。




昨日までは母の子なれど、


今日は君の家来。




義理として、私の恩恵に


惹かれ、忠節を欠くわけ


にはまいりません。




母者に対しては度々、


お詫びようもござらぬ。」と。




母が言う、




「威豪よ!人にはそれぞれ


運命がある。わしのことなど


気にして、忠義を欠いては


ならぬ。




昔、王陵の母は漢の


使者の前で自害して、


王陵の気持ちを固めた


そうな。




お前もしっかりおやり!」と。






苞は即座に進撃し、


賊をすべて打ち破ったが、


母も蔡氏も賊に殺された。






苞は母を棺に納めた後、


自分で事情を上奏し、


郷里に帰って、葬った。




霊帝は勅書を送って


弔慰し、シュ公に封じた。




苞は葬式の終ったあと、




同郷の者に言った、




「お上の禄を食みながら


国難を受けるのは、


忠ではない。




母親を殺すことをもって


義理を全うするのは、


孝ではない。




かくなれば拙者、


どの面下げて、世間に


生きて行かれようぞ。」と。




遂に血を吐いて死んだ。




さて、本題。



『五帝本紀』によると、


「(センギョク)には窮蟬(きゅうせん)

なる息子がいたが、玄囂の孫である

高辛が帝位に。これが(帝コク)。」




渡辺精一「史記物語」によれば、

なんでも【世襲】を避けようと

言う意図が見えるのだとか。


(センギョク)の息子の名を挙げた

にも拘らず、後を継いだのは、

(テイコク)であると書いている。



つまり、

[徳のある者から徳のある者へ]が

理想であり息子がダメなら、譲れと。




まだいろいろ書いてあるが、

それは本買ってください。


自身が危ないので。





治世


(帝コク)の祖父は玄囂、

その息子に蟜極(きょうきょく)

しかし帝位にはつけなかった。


玄囂の孫の高辛が帝位に。

これが(帝コク)。


なんでも、

「生まれたとき、

産声で自分の名を言った。」と。


(コク)と言う漢字は[告げる]

から(コク)。


漢字が変換できんので、

分かりにくいが…。


天下万物に利益をもれなく

与え、自らは利益に執着せず。


※これには裏の意味があるとか。


聡明にして遠くのものを知り、

些細なことにも気が付き、

民衆の緊急の課題に応じ、

仁愛に満ちていつつ、威厳があり、

恵み深く信があり、自身の行いを

正しくし、天下は皆服従した。


万民を慈しみ教育し、

大地からの収穫は節約して

用い、太陽や月の運行を

暦に作り、鬼神の性質を

明らかにして敬った。


その表情は和らぎ、

高くそびえたつほどの

徳があり、行動はすべて

時宜に適う。


服装は質素で、中庸にして

適正な徳によって天下に君臨し、

太陽や月の照らすすべての範囲

の者が服従した。


間が空いてしまったので、


リンクを。

前のはコチラ。


ここ見ないとわからんかも。


さて此度は、《帝嚳》。


漢字が恐らく、

変換できんので、カタカナ表記。


《テイコク》


《コク》は簡単に説明すると、


黄帝には二人の子供がいて、


一人は玄囂(ゲンゴウ)

または青陽


も一人は、昌意


玄囂の孫が(テイコク

又の名を高辛


昌意の息子が、高陽

これが顓頊センギョク)。


つまり、黄帝の後、


二人の息子が黄帝にはいたが、


二人とも臣下の列に下った。


その後、昌意の息子が

帝位につき(センギョク)。


その後、もう一人の玄囂の孫の

テイコク)が帝位につく。


そんで(テイコク)の子孫に

が出て、これに継ぐ。


その後、(センギョク)の子孫に

が出る。


んでもって、に娘を

嫁がせたわけで、統一。と。



これをまず。