漁父 -3ページ目
さっきの続き。
前回↓
「後漢書」<孔融伝>③-Ⅳ
さて?慮(ちりょ)と孔融の
仲が悪くなった。
それを見て、曹操、
孔融をおだてる手紙を
遣る。
文面には、
「聞けば堯舜の朝廷には、
高位を譲り合うすばらしい
臣がいた。
それゆえに、麒麟、鳳凰が
遣ってきて帝の徳をたたえる
歌が沸き起こった。
後世、道徳は衰えたが、
かといって、それでも
※君のために死に、国の
ために身を投げ出し、
家族を犠牲にする臣は
いた。
※孟陽、紀信、要離、李通など。
要離…春秋の呉の人、
呉の公子姫光は本来
王位が自分に来るはず
なのに回ってこなかった。
王位は姫光の父、諸樊の弟
余昧の子僚(太子)が継いでいた。
王位を奪うために二人の
刺客を雇った。
一人は専諸、もう一人が
要離である。
専諸が姫僚を殺害。
ここで姫光は王位につく。
これが呉王闔閭(こうりょ)。
要離は姫僚の子姫慶忌
を殺害。
要離は暗殺に先立って、
太子を信用させるために
妻子を殺させて自分も
闔閭に恨みを抱いているように
見せかけた。
そんで信用させて殺害。
その後要離は、妻子を
殺害したことと、天下の
英雄姫慶忌を殺害した
ことを悔い、自害した。
閑話休題。
道徳は衰退したけれども、
国や君のために家族、
自身を犠牲にした人はいた。
その弊害として、
ちょっと睨まれただけの
恨みにも必ずあだ討ちし、
一飯の恵みにも必ず報いる
ようになる。
長いので一旦区切る。
続く。
前回↓
「後漢書」<孔融伝>③-Ⅲ
さて、曹操。
いい加減孔融が鬱陶しい。
日に日に増す自分への批判。
正論を真正面から。
けれども孔融は、孔子の子孫。
その名は天下に広く知られる名士。
最初は曹操、耐えていたが、
そのうち、
「こいつ将来俺が天下統一する
のに邪魔になるんじゃねぇか。」
と。
山陽郡の郗慮(ちりょ 字は鴻豫)
なる者、曹操の意向を汲み取って、
孔融を弾劾、免職した。
これにより孔融と郗慮(ちりょ)の間
は険悪。
前回
続き。
あるとき、孔融は奏上(天子に
申し上げること)していうには、
「周の制度に準じ(のっとって)、
千里四方を畿内(天子の地)とし、
その中には諸侯の国を建てない
ようにすべきであります。」
※これは曹操の身内が要地を
うめることを防ごうとする意味が
あるとか。
「戦国策」より。
諸子百家のひとつ。
法家の商鞅の話。
商鞅は衛鞅ともいい、
商に取り立てられたので、
商君とも。
商鞅が魏から逃げて
秦に入った。
秦の孝公は彼を宰相に。
そして商の地を与えた。
商君が秦を治め始めると、
法令が隅々まで行き届き、
公平であった。
刑罰は相手が強大で
あっても避けることなく、
恩賞は近親であっても、
依怙贔屓(えこひいき)
することなく、
法令はたとえ相手が太子
であろうと適用され、
その守役を身代りに罰した。
かくして(このようにして)、
一年もすると、道にたとい
落し物あっても、拾わなくなり、
民は理由もなく者を取らなくなり、
軍隊は精強に、諸侯は恐れ戦いた。
けれどもそのやり方は残酷で、
薄情であり、恩情がなく、
民を屈伏させるだけであった。
孝公は病気で死ぬ間際、商君に
位を譲ろうとしたが、商君は辞退して
受けなかった。
秦の法治主義は徹底的で、
ある種の恐怖政治。
刑罰には残酷な鼻削ぎとか。
法で縛ると。
これが秦が長く続かなかった
所以。
「戦国策」より久々に。
戦国期になると、周王室の権威は
地に墜ちた。
楚や斉、秦韓魏趙燕なんかも
王は周にしかいないはずが、
勝手に名乗り始める。
ところで、受験勉強の時に、
「春秋・戦国の国が覚えにくい」って
言ってた人がいたけど。どうなんね。
簡単だと思うんだが。
『晋が三つに分裂うんぬん』て。
晋の韓厥、趙盾、荀罃(中行氏)、
士氏(范氏)とか、思い出せば自然と。
閑話休題
周王室の権威が衰退。
周王室は韓、魏、楚などに
挟まれていて苦労していた。
ある時、
韓王の臣下に厳氏がいた。
厳氏は韓王と宰相を弑した。
弑する(しいする)
…自分より身分や年の
上の者を殺すこと。
父親とか、君主とか。
その事件に同じく韓王の
臣下の陽堅と言う者がいた。
かれもその事件に関わって
いたので他国に出奔した。
出奔(しゅっぽん)
…=逐電。逃げる。
その途中、彼は
周の国に立ち寄った。
周君は陽堅と仲が
良かったので、十四日も
引き留めて、歓待した。
そのうえ、周君は自分の
車を四頭の馬にひかせ、
目的地まで送り届けて
やった。
このことに対し、韓は
周君に詰問した。
使者
「なんで、逆賊を歓迎したうえ、
鄭重に送り届けたのか。」
周君は何分にも韓が、
大国であるので困っていた。
そこである説客が助言した。
説客
「使者にこう言っておやりなさい。
『私は厳氏が逆賊行為を犯した時、
陽堅がこの事件に関与していた事を
知っていました。だからこそ十四日も
引き留めて、お沙汰をお持ちして
おりましたのに、韓からは誰も
来ませんでした。けれども何分、
我が国は小国でありますので、
これ以上の負担は無理だと。
だから、他国に放逐されたまでです。』
と。」
これで難を逃れた。
いやはや見事と言うべき。
事実とその行為の真意を
すりかえると。

