曹操からの手紙に

対しての孔融の返答。




孔融

「わざわざのお手紙、自分でも

気付かない事をお教え戴き、

有難くお礼申し上げます。


私と鴻豫(ち慮の字)とは、

生まれた郡も魯郡と山陽郡

で隣同、最も古くからの

知り合いでございます。


私は以前、鴻豫の美点

を申し述べましたが、


それも鴻豫に対する

わが君の覚えをよくし、


それがすこしでもお国の

ためになると思えばこそです。


鴻豫が私の過失を包み隠し、

罪があるのに咎められずに

済む事を期待してでは、

ございませぬ


先日の罷免も喜んで

お受けしました。


昔、趙宣子は朝方に

韓厥を将軍に推挙し、


夕方には自分家の者が

韓厥に処罰される羽目に

なりました。


その時趙宣子は喜んで、

誼の友人の大臣に、


『わしを祝うてくれ!

わしの目に狂いはなかった。』


と申しました。


まして趙宣子程の

手柄もないこの私に対し、


その役目の人(鴻豫)が、裁きを

枉(ま)げてもよいものでしょうか?


私には屈原ほどの忠義はなく、


チョウ錯程の知恵もない身で、

禄を盗んでいたのがそもそもの

誤り。


罪にかからねば、

僥倖(思いがけない幸い)

でございます。


それに余計なうわさをお耳に

入れました段、重々恥入って

おります。」






いったん区切ります。

「後漢書」<孔融伝>③-Ⅶ


の続き。






手紙遣るまでの顛末↓


「後漢書」<孔融伝>③-Ⅳ








曹操の孔融に対する手紙。






「先ごろ聞けば、君ら二人は


公平なる法の裁きを受けながら


そのことを根に持ち、昔の誼に


かえるべきところであるのに、


ますます怨恨を深め、互いに


傷つけようとし致しおるとか。




わしはこれを聞き、がっかりして、


夜の目も合わぬ。




昔、※わが国が東に移ったころ、


文挙(孔融の字)は盛んに鴻豫


(こうよ ?慮の字)が名実兼ね


備わる人物で、経学全般に明らか


なることを鄭玄(じょうげん)に過ぎ、


『司馬法』に通じおることを感嘆して


いた。




鴻豫もまた文挙が一風変わった


博学の士であることを称賛しておった。




昔に変わるこの頃のざま、


不審でならぬ。




わしは文挙とは古馴染みではない。




また鴻豫にも何の恩義もない。




しかし、人が褒めあうことを願い、


人が傷つけあうことを望まぬ故に、


両君の仲を取り持つべくあくせくして


おる。




それに両君の仲たがいは、小人ばら


の仕組んだことだと承知しておる。




わしは臣下として海内を教化する


ことはかなわず、恩恵で民をなつける


こともできない。




しかし、戦士を大切に養い、国のために


身命をなげうつのは本職。




根も葉もなきうわさを撒き散らし、人の


仲をかき回すやからを退治すること位は


朝飯前である。(だからわしに任せておけ)。」




と言う手紙を遣った。






※「わが国が東に・・・」


  献帝が許に都を移した。


  




ちなみに、?慮(字は鴻豫)はもともと


孔融の下役で孔融が推挙した。

「後漢書」<孔融伝>③-Ⅵ




の続き。








曹操の孔融に宛てた手紙の内容。








「昔、廉頗・藺相如は小国の臣


であったが、それでも互いに


へりくだった。




寇恂(コウジュン)・賈復は動乱


の時の武将であったが、節を


屈して(まぁ諍いを互いに抑え


て的な)誼(よしみ)を結んだ。






光武帝は兄劉伯升を殺されたが、


その恨みを問わずに朱寵を用い、




斉の桓公は帯がねを射た管仲を


用いた。




そもそも大きな手柄を立てようと


いう者が些細なことを気にして


いていいものか!












一旦区切ります。








まだ続くよ。






一応いっとくけど、曹操が孔融


嫌いなのを感じ取った(または


命令?)なんちゃらが孔融を


弾劾し、免職にして孔融と


なんちゃらの仲が悪くなって、




それに対して、曹操が、


君たち名を成すためには、


私憤を捨てろと言うことを、


過去の偉人の業を列挙して


諌めるてきな茶番。


前回↓


「後漢書」<孔融伝>③-Ⅴ






まだ曹操の孔融に宛てた


手紙の内容。




「さればチョウ錯


(漢字なかった チョウソ)は


国に忠義を尽くし、ながら


爰?(エンオウ)のために


禍に遭い、屈原は楚の運命


を悼(いた)みつつ、子椒、子蘭


に讒言された。




また、彭寵が反乱を起こしたのは、


朱浮(しゅふ)の讒訴がもとである。




鄧禹(とうう)の威名が傷ついたのは、


宗欽・馮?(ふういん)の争いがもと


である。




これでみれば、喜怒哀楽は禍福の因。




慎まねばならない。










一旦区切ります。




ここでは、もともとは功名高かった人が、


私憤で名を汚した例や私憤のせいで


失敗した人の例を挙げて孔融に


『諭している』体を取りながらも、実際は


曹操のために?慮(ちりょ)が孔融を讒言


したので、結局は曹操のせいと。