続き。


その後、老人は(費長房

のいる)、高殿へ上がって

きて、長房に面会し、言った。


老人

「わしは元々仙界の者で、

過ちを犯して下界に降ろ

された。しかし刑期を終え

私は仙界に帰らねばならぬ。」


「そなたには私についてくる

ことはまさか出来まい。


高殿の下に少なくはあるが、

酒を持ってきた。別れの酒を

そなたたと酌み交わそうでは

ないか。」と。


長房は家来に命じ酒を取りに

やった。


酒は持ちあげられない。


今度は十人がかり。


しかし、十人がかりでも、

びくともしない。


老人はそれを聞くと

笑って、高殿を降り

指一本にひっかけて

持ってきた。



その酒壺にはどう見ても

ごく微量の酒しか入ってない。


しかし一日中飲んでも、

無くならなかった。



つづく。

Part2


今回は結構面白い。

あと、長編。



費長房

汝南郡の人


彼が市場の役人であった時、

薬売りの老人と出会う。


その老人の店の先には、

一つの壺がぶら下がっている。


毎日市場が終わると、

老人は壺の中へ、

ぴょんと飛びこむ。

が、誰にも見えない。


長房だけがそれを見付ける。

不思議に思った長房は、

老人のもとへ出向き、酒と

干し肉を贈った。


老人はそれで

「こいつはワシがただ者

でないと分かっているな」

と思い、長房に言った。


「明日もう一度こい」と。



翌日、長房は再び訪れた。


そこで老人は彼を連れて、

一緒に壺の中へ入った。


壺の中は荘厳な邸宅が。


酒やとてもうまい肴がたくさん。


長房は老人と一緒に酒を飲んで

そこを出た。


老人は出るとかれに、

「人には絶対にいうな」と。



つづく。

「後漢書」より。方術伝。


一番有名なのは左慈

ですが、変わったやつを。


方術といえども占いとか

華佗も含むと。


董扶(字は茂安)


広漢郡綿竹の人


若い時、大学で学び

同郷の任安と並び、

有名であった。


二人は同郡の楊厚に

仕え、神秘の国や、

未来記を学び家に帰り

人に教えた。


噂を聞きつけ弟子は、

遥遠くから集まった。


三公の役所から何度も

召され、再三、賢良方正

・博士有道に選ばれるも、

いずれも病気と称して固辞。



霊帝の時、大将軍何進が

彼を推挙、召されて侍中に。


董扶はひそかに太常の劉焉

にこう言った。


董扶「京都は今に乱れましょう。

益州に天子の気が立ち上って

おります。」


劉焉はこれを信じ、益州の牧に

転出したいと願い出た。


董扶も蜀郡の属国都尉になり、

一緒に都を去って、蜀に入る。


やがてやはり霊帝が崩じ、

天下は乱れた。


董扶はそこで官を辞して

郷里に帰り亡くなった。


享年82歳。


「益州に天子の気…」


これはまぁ劉焉じゃなくて、

劉備だったんだけど、

当たってるね。


蜀の丞相諸葛亮が、

広漢の秦密に尋ねるには、


諸葛亮「董扶と任安では

どちらが優れているか。」と。


秦密

「董扶は毛筋ほどの善をも

誉め、かすかな悪をもけな

します。


任安は人の良いところ覚え、

人の過ちを忘れます。」と。




しかし劉焉よ。残念。

「後漢書」より。




逸民…間をのがれて、


隠れ住んでいる人。










漢陰の老父(一般人なので


姓名不明、出身も不明。)









桓帝の時、竟陵に行幸し、


漢水まで来たとき。




行幸は天子が外出すること。




土地の者はみんな見物に。




ある老人だけ畑を耕すのを


やめない。




尚書侍郎の南陽出身の


張温は不思議に思い、


人を遣って尋ねさせた。




ところで南陽出身の張温


て、あの張温?




閑話休題。




使者「人々はみんな見物に


来ているのに、お爺さんだけ


なんで畑仕事をやめないのか。」




老人は笑って答えない。




張温は自ら馬車を降りて声を


かけた。




老人が言う、


「わしはただの百姓、難しい話は


分かりませんが、一つお尋ねしたい。






天下が乱れたから


天子を立てたのか?




天下が治まったから


天子を立てたのか?




天子を立てたのは天下


の民の父とするためか。




天下の人を働かせるのは、


天子に奉仕させるためか?




昔、聖天子が世を治めた


時は、茅葺の屋根に丸木


のままの椽。




それで万民は安らかで


ござった。




いま、あなたの君は、


民を働かせて自分では


したい放題。遠慮もなしに


遊び呆けていらっしゃる。




わしはあなたのためにも


恥ずかしい思いがいたします。




あなたはよくもまあ、


厚かましくも人が見物に


来ることを望まれますな!」


と。




張温はひどく恥じ入った。


老人に姓名を尋ねたが、


とうとう老人は何も言わずに


立ち去った。

「後漢書」より。

列伝。


『独行』一人で行くと。

我が道を行く的な。





劉茂(字は子衛)

    太原郡晋陽県


晋陽県は春秋の晋の都


劉茂は早くに父親を亡くし、

家は貧乏であったが、労働し、

母親を養っていた。


彼は村で一番の孝行者と

評判が良かった。


成長し、礼の経書を読み、

人に教え、その弟子は

数百人に上った。


前漢哀帝の時、

孝廉に推挙され、

昇進して五原の属国候と

なった。


その後、母親が亡くなった

のを機に官を辞した。


喪が明けて沮陽の県令と

なった。


ちょうどそのころ、

王莽が帝位を簒奪した。


劉茂は官職を棄てて、

山中に隠遁した。


数十年後、光武帝が

後漢を再建し、

その光武2年に

劉茂は故郷に帰り、

郡守の属官となる。


当時はまだ赤眉の

残党が各地におり、

勝手に帝位を自称

していた。


蜀の公孫述、


また各地に光武帝に

対抗するものがあった。


隴西の軍閥隗囂など。


赤眉の軍二十万が

各地の郡県を襲い

長官や事務官を殺した。


劉茂は太守の孫福を

背負い、兵を乗り越えて

穴の中に逃げ込んで

助かった。


穴の中で昼は身を潜め、

夜になると食べ物を探す、

こんな生活をすること

三ヵ月余り、賊が立ち去り、

ようやく戻ることが出来た。


翌年詔が下り、天下の義士を

探し求めた。


孫福が劉茂を推薦して言うには、


「私は先年、賊に攻められ、

官吏人民はバラバラになりました。


劉茂は危機一髪のところで私を

背負って城壁を乗り越え、盂県に

逃げのびました。


劉茂とその弟は、敵の白刃に

身をさらし、山伝いに食料を

運んでくれました。私と(私の)

妻子はこれで生きのびました。


其の忠義は最も気高いもので

あります。」と。


ただちに勅命で劉茂を召し、

議郎に任ぜられ、宗正に栄転、

後、侍中を加えられ、在任中に

亡くなった。