最近出会ったある方が、その人は先日自分の事業を手放して無職状態でいろんなところを回っている人なんだけど、「どこへいってお金がもらえるとかもらえないとか関係ない。そこにこだわらないおかげでいろんな経験ができる」というようなことを言っていた。自分と似たことを考えている人がいてちょっと嬉しかった。


私は地球宿で無給で長期の居候させてもらっているが、お金をもらっていないことで自己価値を低めるのではないかとか、スキルを安売りしていないか、スキルに見合った給与交渉をすべきではないか、そうでなければ周りにも迷惑がかかるなのではないかなどと不安に思う気持ちがなくもなかった(※1)
 

地球宿ではここ数年4-12月の間だけ有給スタッフを募集している。私が「地球宿に行きたい」と突然思い立ったのは(※2)今年の3月で、宿主である望さんに連絡を取ったときには、すでに別のスタッフが決まっている状況だったし、これまでも別のゲストハウスで働いた経験などから、他に雇う余裕がないだろうこともわかっていた。給与の話をしたらここでは働けなかったと思う。
 

お金は道具に過ぎない。必要なときに必要なだけあればよいし、あるところからもらえばいい。
冬暖炉に薪をくべるために、不要な木を持っている人に「薪をください」というのと同じことだ。(ここでは、年老いたりなどしたりんごの木を切り倒すのを手伝う代わりにそれを薪としてもらって来ている)
でも「お金は自己価値と比例している」とか、人間がいろいろ意味を与えるから、それぞれにとっての意味が生まれるんだと思う。

先日、「喜びを提供した対価としてお金がはいってくる」と言う話をきいて、少しひっかかってしまった。
それが事実だとしたら、無給の私より有給スタッフのもう一人の方がより喜びを与えているっていうことになるの?と短絡的に思ってしまった。
 

だけど、少し考えると、「喜びの対価としてのお金」も事実だけど、喜びを与えてもお金が入ってこないこともあるとわかる。ボランティアもそうだろう。
 

お金が入ってくるためには「喜びの提供」だけでなく「仕組み」が必要なんだと思う。もっと簡単に言うと「これだけお金をください」ということ。
 

私は望さんとの契約でお金が入る仕組みを組み込まなかっただけのことだ。(生活費もかからないし貯金も少しあり、自分でもネット経由などで多少は稼いでいたので、その必要もなかった)いくらりんごの木を持っている人を喜ばせても「薪ストーブがあるので薪をください」と伝えなければ薪はもらえないだろう。


喜びを提供してお金が入ってくることもあれば、薪がもらえることもあれば、もっと喜びが帰ってくることもある。「喜びの対価としてお金が入ってくる」というのは上記の事実の一部を切り取っただけのことだ。

 

道具の中でお金だけを特別視して、「自己評価の象徴だ」とか「名誉の証だ」とか考えるから話がややこしくなるのだろう。