外側に正解はない
正解はありません。
私は昔、外側に正解を求めていました。
全ての事に答えがあると、無意識のうちに思っていました。
味ー美味しさには、正解の味がある。
美ー例えば絵画の美しさには正解の美しさがある。
衣ーそれぞれに似合った「正解」の美しさがある。
そのため、私の五感はすべて、それを探すものになっていました。
何かを食べていても
「これは美味しいと言うべきなんだろうか、不味いと言うべきなんだろうか」
そして、思考がぐるぐる。
美しい絵画を見ていても
「これは良い絵と言うべきなんだろうか、それともダメな絵なんだろうか。」
また思考がぐるぐる。
正解を外に求めていました。
たくさんの人が、「コレは美味しい味だ」と言う、とか
権威ある人が、「これhが美味しい味だ」と言えば、それが正解。
それと違った事を言えば不正解。
もしくは、目の前の相手が喜ぶような答えを言えば、正解
起こらせるようなことを言ってしまったら、不正解。
そんなふうに、どこかで考えていたんだと思います。
その結果、私は、繊細な五感を失っていました。
ずっと、人が気に入るかどうかばかり考えていたから、「思考」も大変です。
そして、ずっと「思考」していたら、感じる隙もなくなります。
だけど、ある時、ある瞬間。
「正解なんてないんだ。」
「誰かを喜ばせるような事ばっかり言わなくていいんだ。怒らせてもいいんだ。」
今までの判断軸がすべて他人だった事に気付きました。
「自分が感じたままでいいんだ。」
「自分が好きなものを好きって言ったらいいんだ」
そうすると、随分、頭が自由になりました。
もう、どう答えたら誰かが喜ぶだろうなんて、『正解』を探す必要はなくなりました。
自分が言ったことについて「きちんと正解と証明できるだろうか」と考える必要もなくなりました。
周りの人の動向を、空気を読んで「正解を答えよう」と努力する必要もなくなりました。
すると、随分頭の中に「スペース」ができました。
そして、周りの意向を気にすることがない「本当の自分」で感じる事が出来るようになりました。
始めて、「味わった」と思ったとき、
それは「喜び」でした。
そして、今までと比べ物にならない詳細が「見える」ようになり、
細かい音の違いが「聞こえる」ようになりました。
だから、
「正解なんてない」