「心を殺してどこかにしまっていても、どうにか生きてはいける」 | ドブネズミのシャララ A面

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心の話をします。宗教とかスピリチュアル系ではありませんので。
心の病、その対処法、周りのサポート等、いろいろな心にスポットを当ててお話していきたいと思っています。

みなさん、こんばんは!

ドブネズミです。


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ドブネズミのシャララ B面」ではより詳しい心の病にスポットを当てて記事を書いています。

よろしければ一度覗いてみてください。


今夜の言葉は「心を殺してどこかにしまっていてもどうにか生きてはいける」です。

実はこの言葉の元ネタは哲学者でもなんでもなくてあるバンドの歌詞の一部なんです。

こういう歌詞の一部を名言というくくりで紹介するのは抵抗がありますが、この歌詞に続く言葉は、心の病というテーマのなかで、大変重要なキーワードになっていると思います。

なぜかというと、僕はある出来事から心の病についてたくさん本を読むようになりました。
胡散臭くても自己啓発本なども読み漁ったりもしました。

哲学者の本も読みました。


でも、結局は言いたいこと、伝えたいことは同じなんです。


うまく生きていける人も、そうでない人も

自分が好きな人も、そうでない人も同じなんです。


すごく複雑に見えて、実のところ心というものは同じなのかもしれません。


前フリが長いとハードルあがりますね(笑)


「心を殺してどこかにしまっていても、どうにか生きてはいける。でも、心はずっと君を待っているんだよ。」

この歌を聞いていて、僕が心の病について学ぶきっかけになった人はそれまでの自己否定をこの歌詞によって少しだけ違った視点から自分を捉えることができたときがありました。

たかが歌なのに、こうも人の心を動かすならすごいことだとそのとき思いました。


心を殺す。


マイナス思考になりがちな人は自分を否定することでどこか安心感を得ているような気がします。

それは先日の記事でも書いた「泣くのは同情。それは自分に対して、或いは世界に対して。」というショーペン・ハウアーの言葉にも似ていると思います。


心を殺して、殺して殺して二度と浮かび上がってこれないところまで落として、それで自分は生きていていいんだと、きっとそういう風に思っているんじゃないでしょうか?

僕もそういう経験がありますから。


だけど、そうして殺し続けた心はそれでも自分を待っている、と。


この辺の解釈は人それぞれ違いますけれども、本当は甘えたい、優しくされたい、愛されたい、そんな感情に素直に応えることが出来たなら、そのときはもう心を自分でどこかにしまいこんではいないはず。

それができないから苦しいんでしょうけど、あなたの心はあなたのことを嫌いではありません。

一方的にあなたが心を嫌っているだけです。


まぁ僕自身に対しても言えますけど。


今日は少し、スピリチュアルっぽくなっちゃったなぁ。
気をつけます。


この辺のお話はまた今度書かせていただきますね。


今日からB面の方ではうつ病について書いていきます。

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