母のこと、色々終わりました。
葬儀が済んで、白い箱の中……。
母が入りたいお墓がここから結構遠方なので、しばらくは家にいます。


火葬場に行ったのは伯母の時以来。

祖父母や伯母の葬儀の時、火葬場で待っている時間は小部屋(控え室)で過ごしてたんですけど、あの控え室って申し込んでおかないと使えないんですね。こういう立場になって初めて知りました。

今回はテーブルとソファが並べられたロビーで待つことになりました。

ちなみに……時代柄?なのでしょうか。
ずらっとならんだ控え室はほとんど使われず、空いてました(使われてない部屋はドアが開いてる)。
待っている人の9割がロビー(ソファ)にいるという。


やがて火葬が済んで放送で呼ばれて、骨上げし、母は白い箱に収まりましたが……
正直言って現実感がありません。
母と思って拾ってないです。

ぼんやりしたまま帰宅。


そうそう。前回、がんの事にも少し触れると書きましたので……
緩和ケア病棟に転院した時の↓



この紙をなんと呼ぶのかは知らないのですが、医師の説明をパソコンで打って渡してくれるやつです。
誤字がありますが……もらったままです。(黄色と水色のラインは私がつけてます)

CT画像を見せてもらいながらの説明でした。
本当に腎臓が1つ、癌の塊になってました。
腎臓が悪いと、顔色というか肌の血色が悪くなる(黒ずむ)イメージだったのですが、母はそういう事にはならないまま、亡くなりました。(少し黄色っぽくなった程度)

血尿は本当にひどく、尿に血が混じっているとかではなく、血がそのまま出ている感じでした。
(なぜか、亡くなる寸前、症状のうち血尿だけマシになってたのは意味がわかりませんでしたが)

亡くなる前3日間は「目は開いているけど意識はない」状態がほとんど。目が開いているというか、もうまぶたを閉じる力もなかったのでしょう。口も開いたまま。呼吸の音がとても苦しそう。
よく「声だけは聞こえている」と言いますが、本当だったのかな?
聞こえてるつもりで、どんなに反応なくても話しかけてはいましたけど。

上の画像の説明を受けたのは12月12日で、すでにかなり容態は悪かったです。

転院前の12月9日の午後が本当に分かれ目でした。
母が母らしくいられたのは12月9日まででした。緩和ケア病棟といっても、完全に苦痛を取り除くことは出来ません。母はそれから亡くなるまで「苦しそうだった」

もちろん、緩和ケアで医療用麻薬を使ってもらわなかったら、もっとずっと苦しんでいたと思うので、緩和ケアを受けられたことは良かったと思っています。

 

できればもう少し早く転院できていたらな。というのはあるけど、もうどうしようもないことです。

 

 

なんというか、式が終わっても全く何の区切りもついてません。

相変わらず悲しいです。

どうしてこんなことになった?!!って、ずっと納得いってません。

 

本当に気持ちが苦しく、SNSで死別に苦しんでいる人のアカウントを眺めたりしています。

なぜか、同じような苦しみを抱えている人を見ていると「自分だけじゃないんだ」と少しだけ救われた気になるのです。

 

 

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