『現実はただの鏡だった件について』
最終章:人生という名の設計図
小さな一歩 – 誰かのために描いてみる #016
信介は、その日、珍しく早起きをした。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の空気がふんわりと金色に染まっている。
なんでもない朝。
だけど、なぜか少しだけ特別な朝のような気がした。
昨日、娘の菜月に送った間取り図は思った以上に好評だった。
「これ、友達に見せたら『すごい!』って言ってたよ」
というLINEのメッセージを読んで、信介はちょっと鼻の下を伸ばした。
「そりゃあな、昔ちょっとかじってたんだよ」
なんて、自分にだけ小さくつぶやいた。
そんな信介の頭に、ふとひとつの思いつきが浮かぶ。
——じゃあ、他にも誰かに描いてみたらどうだろう。
誰かのために。
必要とされなくても、喜ばれるかわからなくても、ただ「描いてみたい」と思える誰かのこと。
とにかくあれこれ考えずに誰かに会ってみよう。
——そんな気分で信介がふらっと思い浮かべたのは、近所の八百屋「たかはし屋」の奥さんだった。
よく通っていた頃は、「またカレーですか?」なんて、にこにこ笑って声をかけてくれた。
最近は足が遠のいていたけれど、たまに店先を通ると、まだ元気に店頭に立っている姿が見えた。
信介はポケットに手を突っ込みながら、玄関でスニーカーを履いた。
「野菜、買いに行くだけだしな」
そう言いつつも、胸の中ではなんだかソワソワしていた。
たかはし屋に着くと、例の奥さんが出迎えてくれた。
「まあ、信介さん!お元気そうで!」
「久しぶりに野菜でも買おうかと思って」
「カレー用かしら?」
「いや、今日は味噌汁用です」
そんな、どうでもいいような会話が、なんだかすごく心地よかった。
レジの横には、昔からある小さなイスとテーブル。
いつの間にか、その上に小さなチラシが置かれていた。
『たかはし屋、移転のお知らせ』
信介はそれを手に取って、驚いた顔をした。
「ここ、なくなるんですか?」
「ええ、ちょっとね。今の建物、もう古くて。大家さんの事情でね」
「じゃあ、新しいお店を?」
「うーん、どうなるかしらね。今はとりあえず考え中。間取りとか考えるのも難しくて」
その一言に、信介の中の何かがピクッと動いた。
「……あの、よかったら、間取り図、描いてみましょうか?」
奥さんは目を丸くした。
「えっ、信介さん、そんなことできるの?」
「まあ、ちょっとだけね。昔、設計の勉強してたんですよ」
「まあまあ、そんな特技があったなんて!」
その会話のあと、信介は両手いっぱいの野菜と一緒に、小さな使命感も持ち帰った。
リビングに戻って、スケッチブックを開く。
今度は“実在するお店”のための間取り図。
予算も限られているだろう。
広さもわからない。
でも、想像でいい。
今できることを、できる範囲で。
入り口の横に、今と同じような木の看板。
野菜が並ぶ棚の向きは、光の入り方を考えて東向きに。
レジの位置、動線。
奥に小さな休憩スペースも作ってみる。
「このへんに、鉢植え置いたら可愛いかな」
線を引くたびに、信介の心の中にも、小さな楽しさが広がっていく。
一時間ほどで、仮の間取り図が完成した。
「ふぅ……けっこう集中したな」
スマホで写真を撮って、たかはし屋のLINEアカウントに送ってみた。
メッセージには、こう書いた。
『素人ですが、参考までに。よかったら見てみてください』
しばらくして、スタンプと一緒にメッセージが届いた。
『わあ!すごく素敵!本当にありがとう!なんだか元気が出ました』
それを見た瞬間、信介の中に、なにか“しゅわっ”と炭酸がはじけたような感覚が広がった。
必要とされるって、こんなにも嬉しいことだったんだ。
昔は、自分がすごいと思われたくて描いていた。
でも今は、ただ誰かが「いいね」と言ってくれるだけで、心が満たされる。
信介はもう一度スケッチブックを開いた。
次は誰のために描いてみようか——そんなことを考えながら、ページをめくった。
