ということで、哲学です。
大学の一年次にとった授業のひとつが哲学だったため、こんなことをブログに書いてみています。
普通、最初の授業だったら、これから一年間教わる教科の紹介とかであって欲しいじゃないですか?
それが、大学に入って一番初めに受けた、授業がそうじゃなかったんです。
・・・・ショックでした。
だって、さっぱりわからないんだもん。
でも、それから、自習なんかでどうにかした結果、ほんのりわかるようにはなりましたけど。
ということで、
その、悪夢の授業で出た、
「決定論と自由意志」に関して、僕が今、こんな感じじゃないかしら?
って思うことを書いてみようと思います。
決定論というのは、僕らの人生に自由はなく、
すべては過去に存在した「原因」によって物事は決められ、
進んでいく、とそのような考えだったと思います。
自由意志というのは、今のところ、特に触れられていないのですが、
おそらく、僕らには人生の岐路で選択権がある。
というようなことではないかと思います。
要は、自由かそうでないかだと思います。
この二つがイギリスで哲学を勉強し始める僕らにとっては、
選択問題のAかBのように提示されます。
ので、これに則って考えてみたところ、
僕的には、
世界には、両方が同時に存在する。
ように思えるのです。
私が、今、やっていることも、これから決める事も、
おそらくすべて、私の過去の経験などによって決まると思います。
だから、決定論がそういう意味では、間違っているわけではないように思われるのです。
で、セミナーにいた、一人の生徒が、
一卵性双生児の例を持ち出してきて、
世界には「自由意志」があると言おうとしていました。
他生徒から、一卵性だとしても、
生まれた環境にたとえ6分だとしても違いがあるなどと言い返されていましたが、
私は、その時間がそれほど大きな違いだとは思えません。
しかし、肉体的にまったく相似している彼らがその後の人生のにおいて
異なった人生を歩んでいくというのは、事実のように思えます。
まず、彼らの育てられた環境がどう違うのか、
というのが問題かと思うのですが、
親の接し方、、、くらいしか、初期的な外側からの影響というのが、思いつかないのですが、
、、、ある程度は違いはあるかな?とは思います。
・・・・・まあ、ごちゃごちゃ言えば、言えないこともないんでしょうが、
面倒くさいので、
私が、この「決定論と自由意志」で思い浮かべた、
仮定仮説のようなものは、、、
確かに、僕らの行動なんかは過去の経験なんかに基づいている。
でも、その経験というものは、非常に個人的なもので、
たとえ、一卵性双生児が同じ体験をしたとしても、
彼らはそれぞれその体験を彼らなりに脳内で編集し、記憶している。
それ以前に、見ているところ、聴いているもの、注意しているモノは個々によって異なる。
これらは、経験によるというより、
僕らが選択している。
といえるんじゃないかと思うんですよ。
と、言いますか、まず、私的には、
「自由」って何ですか?
って言うのが、非常に基本的ながら、疑問なんですよ。
ついでに、言いますと、
私、個人的な世界観とこれとは異なりますんで。
これは、適当に西洋的意見を作ってるだけですんで。
僕はね、「全ては僕である」って言うのが好きなんです。
世界に戦争が絶えないのも、
いまだにこの世に存在する私の嫌いな人も、
空気も机も、全部私。
ってのが好きなんです。
私が今の両親の元に生まれてきたのも、
日本の東京に生まれてきたのも、
私の意志(私っていう定義ができないけど)によるものだってのが、
好きなんです。
完っ壁な「自由意志論」者ってところでしょうか?
だから、私が変われば宇宙が変わるってのも、、、好きなの。
ま、証明なんてできないし、する気もないけれど。
ほほほっ。
まぁ、そんなこと、ここ(イギリス)じゃ、話す気ないけどね♪
アタシ、ケチだから。
ついでに、面倒臭がりなの。
まぁ、僕が、イギリスに来た理由のひとつに限っては、
ヨーロッパ人の観察でしたからね。
この近現代(?)を形作った西欧の世界観を知りたかった。みたいな?
むしろ、冷やかしたかったのかも。
・・・・・と、言うことで、長~い、独り言にお付き合いいただいたことに感謝いたします。
ありがとうございます。
また、今度。
熊子