英会話のレッスンでヨーロッパ出身の先生と話す機会があった。

英語だったけど、たぶん、かなり正しく理解できていると思う。でも、じゃあこれを英語で再現しろって言われると全然できない。

その「場」で、文脈とか前提知識に助けられて理解してる部分がかなりあるってことなんだろうね。


こういう再現できないあたりも言葉の不思議なところだなと思う。

私はそのとき頭で日本語に変換していたわけではない。でも英語で記銘されているわけでもない。

言葉(ラベル)を持たない純粋な意味になってた?それ(言葉を持たない意味、コンセプト)ってそもそも存在し得る?

いったん英語で理解され、記憶に転送されるときにラベルとしての言葉(ここでは英語)が抜け落ちて日本語の意味が付与されるのだろうか。


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●ポーランド語は日本語と同じで主語を省略するけど、ポーランド語が日本語と似ているわけではない。

似ている点: 主語を省略しがち

理由: 日本語の場合、前提として集合的な視点(「空気読めよ」が最たる例)であるため、自分の行動かみんなの行動か区別して述べる必要がない。

ポーランド語の場合、動詞の活用が七種類(!)もあり、その活用形から、主語などを特定できるため、主語を明言する必要がない。


●日本人は「欧米」と括りがちだが、ヨーロッパと米国は相当違う。ヨーロッパ人の感覚として、アメリカと日本が両極にあって、ヨーロッパは真ん中くらいにある感覚。自国と日本が違うのと同じくらい、自国とアメリカは違うと感じている。

たとえば、アメリカのように「銃社会」は、ポーランドでは全く想定できない。(もっとも、1ヨーロッパの中でもゲルマン系とスラブ系などでも相当に違うのだと思われる)

これって知っとくべきだよなと思った。

あとで思ったけど「アメリカ人」「ネイティブイングリッシュスピーカー」の違いを明確にしないまま聞いてしまったなと思う。英語の特徴なのかアメリカの特徴なのか。



●日本とアメリカは両極端であり、結果として類似している部分がある。ヨーロッパに比べて、アメリカも日本も「すごく仕事重視」だと思う。日本の場合は自分を犠牲にしてでも組織として成果をあげることに対する圧がかかった結果だと思う。アメリカでは仕事は個人が行うものでかつ実力主主義のため、個人の成果を評価したり競ったりする傾向が強い、その結果、めちゃくちゃ仕事をがんばる人が多くなる。


●英語のように、「一人称だけ」を大文字で表す言語は非常に珍しい。日本語のように、一人称が山ほどある(私、俺、我輩、俺様、朕)言葉も非常に珍しい。

Iは、いかなる時、場所によっても自分は揺らがないことがわかりやすい。

一方一人称がたくさんあることは、自己が相対的であることを示している。



●基本的に言語はシンプルになっていく傾向にあるそうだ。多くの言葉は昔はたくさん活用形があったけど、「なくてもよくね?」となったら廃れていく。

ポーランド語はあまりそういう変化が起こらなかった。←なんでなんやろ。


●日本の言語教育は「翻訳」が中心だけど

それは根本的に間違っている。

翻訳能力と言語の獲得は別物だ

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ヴィゴツキは言葉を認知的道具ととらえて、言葉の内化を発達だと定義している(と理解してる)わけだけど、

人間自体が事象を解釈する道具なのかもしれないなと思う。だれにとってなのかわからないけど。



名前をつけるということは

注目するということだし、

それは

区別して切り取る、切り出すということだよね。


切り取る大きさや角度は

言語によって違う。


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言葉というと。


職場にちょっと不思議ちゃんがいる。

(まぁ私も人からみたらものすごく変人であるかもしれないのだけど)


その子のことを、私は好きだし、基本的にうまくやっているんだけど、


時々会話が噛み合わない。

その子がつくる質問紙の調査項目は、なんだか答えにくい。



たとえば


彼はどう考えていますか?



彼はどう考えていると(あなたは)思いますか?


の違いが伝わらない。

「同じことですよね?」みたいな反応がかえってくる。


ちょっと「アンとサリー課題」を思い出す。


それですなわち

その子が発達障害とかは全く思わないんだけど、


文脈を無視して正しいかどうかだけで判断したり

情状酌量がなかったり

自分が思うか、相手が思うか、はたまた自分が相手の考えを推測するかの差が不明確だったり


そのあたりが不思議ちゃんたらしめているように思う。