英会話スクールの先生の中に
東欧出身で言語学を専攻していた人がいる。
日本史も大好きで、私よりも詳しい。
東北行ったの?
伊達政宗は、とても視野が広くて、寛容だよね。
みたいなことを聞いてくる人。
その人の話を聞いてると、
言語学って面白いんだなあって思う。
この人は勉強が好きなんだよね。
そういう人の話は、生き生きしてて、
きらきらしてて、楽しい。
で、その人が言うには
言語というのは、容易に、
ダイナミックに変わるものだという。
数百年ほど、イギリスの為政者がフランス人になった。←ノルマンコンクエスト
その期間に、市井の人の言葉が大きく変わった。文法からアクセントまで。
彼女が言うには、
だから、
日本語の方言で、全然違う地域なのに共通点があるのは、江戸時代とかに行われていた転封の影響がとても大きいと思う、と。
そして、言葉とは世界を掬い取るものだけど、
掬っている世界が違うものだから、完全に一致はしないよねという話もした。
↑
言葉が掬いとる世界の破片が違うのは、
常々感じていたけれど、
言語学では
ひとつの言葉に対して
デノテーション(明示的意味)と
コノテーション(含意、ニュアンス)があると
捉えていると聞いて、
すごく納得した。
コノテーションって、気候とか風土とか、文化とか、時代とか・・・そういうのと、絶対に切り離せないし、そうやって作られた言語で会話されることによって、文化が生成されるんだろうな。
日本語で考えると、やっぱり、日本語の思考にしかならない。
複数言語が使えると、
世界そのものが広がるんだろうなと思う。
(そして翻訳コンニャクなどというものは存在し得ないように思う。もちろん、近いことはできるし最近は実現しているけど)
明治大正あたりの文学にはたくさん
カタカナが出てくるけど、
今更ながら
そうとしか書きようがなかったんだよな。
日本語が存在しなかったというより
概念が存在しなかったんだ。
最近聞いた心理学の講義でも、言語は究極の「認知的道具」だと言っていた。
※※※
Uさんは、デジタルのことは私に聞くと決めたようだ^^;
この人の場合、
「なんでも人に聞けばいいと思ってる人」というより、半分くらいは、コミュニケーションの手段なんだろうなという気がする。もう半分は、PC操作系について「は」、系統立てた知識は不要と思っているのかも。
(その証拠に、業務オペレーションについては規程をいつも持ち歩いている)
私はシステムの利用促進の責任者に任命されてるだけで、デジタル全般の担当でもなければ、そもそもデジタルについて強いわけではないんだけど。。。
デジタルに限らず
基本、色んな人からものを聞かれる。
要するに便利な人間なんだろうな。
よくいえば「親切」で「責任感がある」と人から思われている(どちらも面倒くさがりの裏返し。本当の意味での責任感なんてない)
説明することは好き。(それと話好きかどうかや、親切かどうかは別物だよね)
それに、過去に、自分が解決したことがあることを聞かれることが多い。
たぶん、ものを調べるというのは、
苦にならない人と苦になる人がいるんだろう。
そして、人にものを聞くということについても
苦にならない人と苦になる人がいる。
※
誰かと雑談していて、
途中からそろそろ話に飽きた、帰りたいなあということがよくあるし、
人がずっと雑談しているのを聞いて
何が楽しいんだろうと思うこともある。
※※※
東北に旅行にいったら、
不思議とPさんへのイライラがかなり軽減したような気がする。
ストレスだったんだろうか。
時々、こういう場所に
意識して
赴かないといかないといけないのかもしれない。
