ねじまき鳥について

今回考察したことをまとめると

 

オカダトオルは自己統一性・ 統合された自己・ 一貫性・ 筋 のようなことを象徴する存在であり、

それは「箱」のようなものである。

箱は個人の能力の方向性を限定し、そして能力に限界をあたえるものである。

(箱にいれた蚤が飛べなくなる話が例としてわかりやすい)

同時に、箱は個人を守るものである。

外部からの攻撃から守るというよりは、中身の流出・散逸を防ぐという意味で。

 

 

一方で、

ワタヤノボルや、情動・感情・快楽・能力・欲求・残忍さといったものを

「開放するもの」の存在である。

「ナイフ」のようなものである。

それらは殻を破ることで、どこまでも拡大することが出来る。

性的な絶頂や快楽といったものもこちらに属する。

箱がないとき、人間の能力・感覚の可能性は無限になる。

一方で、箱がなければ人間は一貫性を保てず、生きていくことが困難になる。

ワタヤノボルは至福を与えうる存在であると共に、とても危険な存在である。

(でも、「殻を破らないといけないとき」というのはたしかにあり得て、

 そういうときに、強制的に殻を破られるのは

 本人によい影響を及ぼすことも確かにあるのだろう)

 

 

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空き家 は オカダトオルのありかたの象徴であって

動物園 は ナツメグ(シナモン)のありかたの象徴である

 

どちらも「箱」ではあるのだけれど

動物園 のほうは壁がない。どこまでもどこまでも広がっていける。

しかし、それはそれで、人は幸せになれない。

 

なぜならば、個人の健全な成長とは

自分自身を「枠」で囲み、

そこから離れた視点で自分を眺める(私とは●●である/あった)ことで

 

過去の「私」と

それを見ている今の「私」

それぞれが、同一の存在である、という認識を持つことを通して

 

自分の枠を拡大し、

それによってはじめて可能になるからである。

 

私とは●●であった、という視点を失うことは

声を失ったシナモンに象徴されている。

シナモンは、あらゆる点で非常に優れていながらどこにも行けていない。