最近はまっていること。

youtubeで、20年くらい前に柔道で活躍されていた棟田選手の動画があって、何度も見てしまう。

 

倒した、とか、転ばした、じゃなくて。

完璧にコントロールされていて

わあキレイ…と、美術品を鑑賞するような視点で見てる。

 

 

「ああぁーっ、逆転!支えつり込み足、棟田!

 一本勝ちでベストフォー進出!

 1分50秒、棟田、見事! 逆転しました!!」

 

「たい落とし! 決まった、一本! あざやかに決まりました、棟田」

「一本背負い!棟田康之!決勝への一本勝ち!」

 

実況アナウンサーが興奮している。

 

ダイナミックで、鮮やかで、美しい。

何かの芸術のように、人が重なって、大きく回転する。

 

 

この動画をみていると「技」というものをちょっと理解できる気がする。

 

 

自分の立ち位置、よくわきまえて、最善を尽くさないとなあと思う。

フォロー、サポート。

謙虚にならないといけないといけない。

 

 

何度目かわからないけど、

またねじまき鳥クロニクルを読んでる。

 

たぶんどこかになにかの答えがある気がするからだと思う。

 

※※

 

僕には
僕自身の存在と他人の存在を
全く別の領域に属するものとして区別しておくことのできる能力がある


よろしい、今僕は不愉快になっている。
でもその対象は、

いま、全く別の領域に入れてしまった。
それについては

後でゆっくり検証しようじゃないか。

このシステムにより、僕は自分自身を比較的安定的に保っていられた。


===
これって、
私もよく試みている戦略であると思う。

リフレーミング。

 

「のだな」の法則だよね。

(岡本一志氏が提唱している方法)

 

ケンカしない知恵、

あるいは自分の心を守る術。

轟轟と燃える火の中で、

苦しみから逃れるのは難しい。
でも、「ああ、私は怒っているのだな」と思ったとき、私の視点は、私から抜け出して、私を観察している。
その観察している私は、火の外にいる。 つまり火から避難できている。


そこは安全な場所だ。

魂が業火に焼かれる前に、意識を切り離す。

…これは一種の乖離なのかもしれない、

というか完全な乖離だなと思った。

そして、たしかに、
これのやりすぎは危険なのかもしれない。
感情を切り離して、捨ててしまっていることに危険さはないか?

笠原メイがいう、

あなたは、これまであなたが切り捨ててきたものから復讐されているんじゃないのかしら?
(もっとも、彼女が指摘する、「僕」が切り捨ててきたものには、情動とか欲求だけではない気がする。。。現実、生身、肉体、地に足つける、そういったこと。おそらくそれは感情と切り離すことができないからだと思う)

そういえば、
昔、カウンセリングを受けたときに教わったテクニックは
「私はもう十分悲しみました

だから手放します」
と自分に暗示をかけるというものだった。


そのあり方と、「僕」のテクニックは、

対極にある。



小さな子どもの場合、

無意識のうちに、コントロールの意図もなく

乖離を身に付けてしまうことがある。
これは、解離性同一性障害に結びつくことが知られている。

クミコさんは幼少期に虐待を受け、

乖離を経験していた描写がある。

 

その結果、クミコさん自身が知らないクミコさんが存在することになり、

どちらのクミコさんも苦しむことになる。


一方「僕」は、意識的に切り離しているのであって、

実際かなりうまくやれてはいる。

 


でも、時々、そのシステムが機能しなくなることがある。それに、僕はクミコさんを失うことになる。

枯れた井戸と何か関係しているとおもわれる。

===

「僕」はワタヤノボル氏を
簡単に自分に関係ない領域に押しやることが出来なかった」と言ってる。

 

彼は本質的には下劣な人間で
無内容なエゴイストであった
...
しかし、僕の立っている基盤ようなものを激しく揺さぶった



オカダトオルさんとワタヤノボルさんがそれぞれ象徴しているものとはなにか。

 

 様々な人間の営みを形作る動因(drive)は2種類あるってことなんだろうな。


ワタヤノボルは「感情・情動」「欲求」みたいなものを操る。相手のそれを操作することができる。

 

オカダトオルはもっと「理性・自律」「誠実さ」「筋道、一貫性→1本通った自己」みたいなところで行動するし、

それによって人を動かす。もっと良い言葉があると思うけど見つからない。「僕」はワタヤノボルを無内容といっているけど、内容は?というと、こういうものが想定されているのだろう。

私は
クミコさんは現実、正義とか秩序とか法みたい存在の象徴なんだろうなと

解釈しているんだけど、
 

クミコさんは、
「僕」とは「愛」はあるけど「快感」はないセックスをしていて、
ワタヤノボルの影響を受けたあとは、

「快感」はあるけど「愛」はないセックスをすることになる。

どちらもむなしい。


後者のセックスをしていた時、彼女は「悪いと思う感覚を失っていた」という。
 

 

クミコさんは最終的には「ワタヤノボル」に制裁を与えることになる。
おそらく、法や秩序は、基本的には「僕」の側にないといけないんだと思う。
(本田さんが、クミコさんと僕の結婚を強く勧めたというのもそういうことではないかな)

それはおそらく「反戦」を考える上でも、大事なことだ。
戦争とか犯罪とか、そういったこと。
 

人間はどこまでも残酷になれてしまう。
法律はそこから人を守るものではないといけないし、
そのためには法律は「理性・誠実さ」「公正さ」 に

立脚していないといけないはずだ。



でも、一方で、人はどちらかだけではだめなんだろうなあ、多分。
きれいごとだけでは、「幸せ」になれないのだと思う。そして、このあたりが、この小説のすごいところだと思う。

 

「僕」の側の落とし穴は枯れた井戸。空き家。

たぶん、うまく「感情(仮)」「理性(仮)」両面で共鳴したとき、

人は満たされた存在になるし、幸せといえるのだろうな。

 

※※※  

※※

 

 

小さな子の乖離は、

非常に非常に危険なことで、

同時にものすごい能力を持っている。

 

ねじまきから離れるけど、ビリーミリガンの話なんかはものすごく興味深い。

どんなに突飛にもなれる。加納クレタが浮世離れした格好なのはその象徴だと思う。

 

「箱の中のノミ」の話の逆バージョン、人間の限界を突破するような。

 

そう考えると、「箱」こそが統合された自己同一性であり、ある意味、能力の方向を限定し弱体化させる存在だといえそうだ。

箱を壊せば、人間の能力は、再現なく拡大するのかもしれない。

 

しかしながら、現実的には

箱がうまく機能していない人間は、大きな困難、しんどさを抱えることになる。
 

つまり、箱というのは、

単なる器ではなくて、

箱そのものが自己同一性なのだろう。

 

 

あ、そうか。

だから「空き家」(箱)なんだな。

 

あ、そうか。

だから、加納クレタは

自分が引き裂かれなにかが出てきたと

感じたのか。

 

ワタヤノボルにとって、オカダトオルは閉じ込めてしまう存在であり

オカダトオルにとってワタヤノボルは切り裂いてしまう存在である。

 

 

※※※

 

動物園と空き家は

担う人がナツメグと僕であるというだけで

同じものだと思っていたけれど、

 

そういうわけではないのかも。


 

動物園は壁のある空き家とは違う。

動物園は、境界がない。おわりがない。

それはどこまでも、どこまでもどこまでも

広がることができる。

 

動物園と空き家は「情動を受け入れる器」という意味では同じであって

その器を、際限なく広げることが出来るとしたら、

一見理想的に見える。

 

でもその結果、シナモンは声を失うんだよね。

 

つまり、「枠(家)」があってはじめて

「枠」を外から眺め、

そして「●●だった」と評することが出来る。

 

私はこうであった、だから次はこうする とか。

 

その家の外からの視点と、今まで気づき上げてきた家がうまく融合することで

人は成長していけるということなんだろうな。

 

枠がない場合、一度枠から出て、

「私はこうであった」と認識する機会が失われてしまうということなんだ。

 

 

 

そう考えると

ねじまき鳥クロニクルは、

人間の成長の可能性について語った話ということになる。

 

 


こんなふうに、リアルで考えながら書いているからとりとめもないけど

 

そして、私の最初の理解が不足しているだけなのかもしれないけれど

 

読んで、

考えて、

そのたびに、ああそうか、と思う。

ああそうか、と思うタイミングが絶対にある。

 

際限のない謎解き遊びのよう。

 

そして

私の解釈が合っている保証もない。

 

でも少なくとも

「ああ、なるほど」と「新しく理解する」体験を

継続してし続けられるのは、非常に気持ちのよいものではある。

 

 

そして、この小説を軸に

自己とか、しんどさとか、不条理さとかを考えて、

自分なりに理解することで

私自身の人生が、楽になると思うんだよね。

 

 

それこそ一種の「乖離」かもしれないんだけど、

 

ああ、あの時に起こった「理不尽」は

こういうふうに解釈ができるなあと思って、そして

そうすれは、いろんな理不尽は自分の人生の糧にすることが出来る。

 

 

だから、多分、私は、一生…は言い過ぎかもしれないけど、

当面の間、ねじまき鳥を読み続けることになると思う。

私は無宗教だからよくわかってないけど「経典」とか「聖書」といったものも

こうした役割を持っているのかもしれない、というかそうなんだろうな。

 

時代が時代なら、意外と、わたしは宗教的な人間であったのかもしれない。