残念なニュースを読んだ。
もう起こらないように、
皆でどうすればよいか、考えないといけない。


作家にとって、作品は自分の分身とか、子どもみたいなもので
「命燃やして作品書いてる」という重みは大切にすべきだと思う。

その上で。

 

これって、誰かが悪い、というような簡単な話ではないような気がする。
悲しい出来事なので、誰かを責めたくなるのかもしれないけど、違うと思う。


例によって変なたとえをたくさんしてしまうけど。

1)
私は最初、カメラって「偽物」だと思ってた。
だって、私がある景色を見て「おお、かっこいい」「きれい」と思って写真に収めても
その迫力が全然伝わらない写真しか取れないから。
 

とてもダイナミックでかっこいい滝を撮ったはずが

奥の方にちろちろと線が映っているだけだったり。

でも、本当は、人間の目の構造とカメラの構造って違う。

「どちらが本物」かなんて、だれがわかるというのか。
むしろカメラの方が世界を正確にとらえてる。

もっというと、

 

見え方には個性がある。


錯視には男女で有意差がある。
「動体視力」や「視野」も人によってかなり違う。

加齢によって色の識別ができにくくなることも知られている。


ちなみに私は、視野の中でちょっと見え方が悪いところがあるって言われたことがある。
つまり、私は人として適正に世界を捉えているとはいえないわけだけど、
 

でも、そもそも「ヒト」が、他の生物よりも正確に世界を捉えているとも言えない。

モンシロチョウは紫外線を見てる。

モンシロチョウが見えてる世界と人が見てる世界はどちらが正しいのか?

だれかの見え方が 「正しい」 なんてない。
(もっとも、人間と動物を比べたら 人間同士はかなり似たものを見ているのだろうけど。)

もっといえば、

何を視界に入れるのかってものすごく個人差が大きい。
ある人は存在すら気づかないものが、別の人には無視できないとんでもなく重要なものだったりする。


それに気が付いてから、カメラや写真が楽しくなった。
自分の見えたものを残すものである という発想を捨てたから。
「ああ、カメラのレンズを通して見たら、世界はこんな風に見えるのか」と思うようになった。



だから、

一つのモチーフとかテーマに対して、ああ、こういう風に切り取って、こう見せたら面白いね
というのを、いろんな角度から楽しむ みたいなことが、あるのは当然で。
それってとても素敵で豊かなことだと思うんだ。

その中で、

「小説の得意なところ」
「漫画の得意なところ」
「ドラマの得意なところ」
「テレビの得意なところ」
「映画の得意なところ」
「アニメの得意なところ」
「演劇の得意なところ」

って、
それぞれ違って、

どうやってそれを活かすかというところを考えると、
見せ方とか切り取り方とか、あるいはストーリーとかが変わってきて当然じゃないかなと思う。

 

ストーリーを大事にするなら、景色が変わるかもしれないし、

ある「セリフ」を大事にするならストーリーが変わることもあるかもしれない。


だから、「改変」というのは

必ずしも作品を軽視しているとかじゃないんじゃないかと思う。

もちろん 「視聴率」 とか「視聴者層」 とか 「受け」 とかの掛け算も加わると思うけど、

それも含めて、
放送作家とか脚本家とかの人が

「職業人」としての誇りをもって仕事をしてきたこと  「も」  、

まぎれもない事実ではないかと。
 

 

登場人物Aさんのこの部分を引き立てるには、

テレビでは、Aさんの姿かたちをこう変えよう
みたいなことはあって当然な気もする… 

 

それって
作品を良くしようとするためのアクションであって。

それって
悪なんだろうか。




たとえば、プリンセストヨトミ、映画と小説どっちも面白かった。


もっとも、あれは、主要人物の性別からして違っていて、
「ああ、二次創作として観ればいいのね」って最初から明確にわかったからよかったのかもしれない。

むしろ、2味楽しめてラッキーという感じだった。



2)

二次創作が 原作より劣っているとは限らない

作品名忘れたんだけど、日本のかなり有名な文学作品が、

実は、オリジナルじゃなくて
アメリカ?かどこかの外国の雑誌だったか新聞だったかに掲載された

連載小説をモチーフにしたものだってことが
結構最近になってあきらかになって、

 

それが新聞に載っていたのを覚えている。
その時に、

「この文学作品の価値は、文体の美しさ等にあって、ストーリーがオリジナルでないからといって
文学的価値が損なわれるようなものではない」 と、

専門家の誰かが紙面で言っていた。

その通りなのだろうと思う。



キラキラ星変奏曲は、めちゃくちゃ明確にモチーフが使われているけど、
やっぱりモーツアルトがアレンジしたことで価値が生まれている。

 

いろんな音楽がジャズになってたりすると、それによって新しい別の価値が生まれている

なのでオリジナル至上主義でそれ以外を認めないというのもおかしいと思う



3)
私にとってはすごく面白いものが他の人にとっては面白くなかったり、
その逆パターン って往々にしてある。
昔は面白くなかったものが、10年たったら超面白いこともある。
つまり、私が理解できなかっただけ、あるいはできなくなっただけ。

村上春樹のねじまき鳥~は、私にとっては、とても面白いのだけれど、
私は、その面白さを、人にうまく説明できないし、誰かにおすすめしたいとも思わない。
あれを必要とする人と必要としない人がいると思う。



なので、
誰かが、簡単に、無責任に、 「こいつが悪い」 と言えるテーマではないと思います。


それはある意味、「逃げ」であって、問題の解決じゃない。



少なくとも、芸術とかアートとかといわれる領域に正解はないし、

どちらかというと
「コミュニケーションの問題」「事前の打合せや、それに対しての責任の取り方」
みたいなところにまずさがあったのでは。

ただ、
そうだとしても
、今回の場合
「過失」であって「悪意」はなかったのではないかと思うし(おそらくは。)
関係者が皆が一生懸命 「仕事」 した結果、
うまくいかなくて、ワーストケースにいってしまった事例だと思うので
とても悲しいことだなと思う。


こういうの、とてもいやだなと思う。滅入るな、と思う。



絶対悪がいてくれたらどんだけ楽なことか。

でも、多分、 残念ながら、 「絶対悪」 が存在することなんて、ほとんどないんだと思う。

・・・
星新一のショートショートに、まさにこういう話があった。
架空の絶対悪を作ることで、(一時的に)色んなことが解決し、
みんなが(一時的に)幸せになる話。


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星新一ってすごいなと思う。

別のネット炎上問題でも
星新一のショートショートを思い出した。


とある幻覚剤を飲むと登場する 「顔のない誰か」を 殴る話。


殴ったらちゃんと、手ごたえがある。
幻覚と承知しているから、遠慮なく殴る。
顔が見えないから、罪悪感なく殴る。

それでとてもすっきりする。

覚せい剤とかと違って、依存性や脳への影響はない。素晴らしい。
幻覚だから罪悪感もない。罪もない。


でも実は、それは、第三者の誰かの精神にリンクしてるんだよね。

現実の誰かが、服用者に精神の一部を乗っ取られて、
近くにいた現実の人を捕まえて殴りかかっている。相手が倒れて動かなくなるまで。


ネット上の中傷に似てると思う。。。
 

たぶん、ネットで誹謗中傷を書く人は、相手の顔を見ていなくて、
「正義感」 で、思いのたけを自由に書いて、すっきりしている。
「死ね!」 とかも言っちゃう。

でも、実はそれ、何倍にも増幅されて本人に届いている。

画面の向こうには人間がいる(幻覚剤は本当は現実世界に通じている)