イカの足を7本といった話に引き続きです。
くコ:彡
私は生き物の「足が何本か」と聞かれた時、幼いながらに奇数だったら安定が悪いだろう、歩きにくいだろうと思ったものです。高校生息子にはそういう発想が少ないです。なぜ?
前置きが長くなりました。今日の話です。
この間、息子の鞄からだらしなく出ていた紙が掃除の邪魔でした。一度引っ張り出してしまっておこうと思ったら、古文の小テストでした。そして見てしまいました。そうしたら、『内裏』の読み方がわからなくて空白でした。
そういえば、3学期のある日、「先生がこんなの常識だと言っていたけど、常識なわけがない、普通知らんわ!」と吠えていたことがありました。
息子に常識があるかないか問題はこのブログでもよくとりあげていますが、親として本当に頭が痛いです。
以下は古文の小テストを発見してしまった数日後の会話です。お時間がある方だけどうぞ。
:「なんとか、かんとか、わーわーわー」
↑塾から帰ってきて、「当り前じゃない!」と言って興奮している
:「『内裏』が読めない人が言って騒いでも説得力に欠けるわ。。。」
:「『ダイリ?』何それ?」
:「古文の小テストで読めなかったんでしょ。」
:「あぁ、『ナイリ』ね。」
:「『ダイリ』です!」
:「『ナイリ』だよ、あれをどうやったら『ダイリ』と読むのか。」
↑3学期のある日に『ダイリ』なんて知らんわ~と言っていたのに、もう記憶にない
:「お内裏さぁまとお雛さまぁ~♪」
:「あぁ、その歌は『ダイリ』だよ」
:「だったら『ダイリ』でしょ。」
:「はぁ~!?」
しばし、沈黙。。。
:「えっ、もしかして、そういうこと?」
↑口だけに1票
:「ちゃんと自分で調べといて。」
:「えぇぇぇぇ、『ダイリ』がどぉとかこぉとか。」
この会話は前にもした気がします。こういうエピソードがあったら覚えると思うんですが、本人に覚える気がないのでしょう。どこかで恥をかくかもね。
息子のような発言が多い子(人)のことを「親の顔がみたい」と言うことがあります。ちゃんと教えてもこうなってしまうことがあることを、この場を借りてお断りしたいです。
幼少期の生活や習慣が後々の学習に影響を与えるというのは本当だと思います。
でも、同じ環境を与えられても、記憶に残る人と残らない人がいるのも本当です。
国語の先生方には、歌って聞かせるとか、心と記憶に残る授業をお願いしたいです。
えっ、レベルが低すぎるって?
すみませんです。。。