日曜日に俺達は予備校がシャッターを開けるまで、予備校玄関前の階段に座り込んでいた。自習室を利用するためだ。

「お前、上村のことはどうするんだよ?」

「やっぱり上村も捨てがたい……ってぇ! なんで殴るんだよ!」

「千石との付き合い、本気じゃないのかよ」

 イライラしたので頭を殴ってやった。うっとうしくらいの日差しへの怒りも込めて。

「だってさ。僕は今まで優衣さんと上村しか女子とは話したことがないんだ。目移りしちまうんだよ。

 いいよな、お前は。何かのイベント時には必ず告白されてさ。

だいたい、上村だって僕のこと好きなのかもしれないし。どうやって友達の関係で終わらせればいいのか、分からねぇよ」

だからって、どっちつかずかの関係はまずい。上村と千石が傷つくし、あるいは両方一緒になって傷つくかもしれない。俺だって一発殴るだけですむかどうか……。

「拓真君!」

その時千石が控えめに手を振りながら走ってきた。

「おはよう」

「ああ、おはよ」

 千石は俺の方を見る。

「友達の飯嶋真司だよ」

 拓真が俺のことを軽く紹介した。

「初めまして。私、千石清美です」

 自己紹介するときの千石の笑顔は可愛かった。

夏の日差しに照らされる白い歯に、甘い香りを漂わせて相手の耳へ入っていくシルクのような声。凛とした歩き方と姿勢が美しい。

 確かに多くの男から言い寄られるはずだ。

 でも、俺にはどうでもいいことだった。千石を前にしても上村のことの方が気になるのだから。

***

その日の午前は自習室で得意科目の勉強をし、午後からは図書館で苦手な数学を清美に教えてもらった。

昼食は真司も一緒だったが、一人自習室に残った。

「ねぇ、明日はどうするの?」と、清美は学生鞄の中にノートなどをしまいながら訊いてきた。

明日は月曜日。サッカー部を引退してから二回目の放課後になる。そして同時に、受験戦争で勝ち残るための二回目の放課後にもなる。

「まずは、そうだな。学校が終わったら自習室に直行して英語の講義の予習する」

「拓真君。明日は英語なんだ?」

「ああ、秋までに苦手科目を克服したくてさ。清美はどうするの?」

「明日は講義ないけど、数学の復習をしようかなって」

「じゃあ、また自習室な」

「うん。あ、そうそう。また私の背中を見つめるの?」

「え!? いや、もうしません」と頭を下げる。

「……冗談よ、冗談。それとも本当に見たい?」

「見せてくれるの!?」

「切り替わり早いね。それも冗談に決まってるじゃない。ベスト着ていこっと。じゃ、また明日ね。バイバイ」

 そう言い残して清美は駅のホームまで走っていった。

***

上村は、拓真に彼女ができたことをまだ知らない。拓真はちゃんと話すだろうか。

二人は放課後の屋上にいる。俺は扉の影に隠れて聞き耳を立てた。

 

***

私は拓真君を求めたいあまり、受験で忙しい彼を半ば無理やり屋上に連れてきた。

これから、私は告白するんだ。

もしかしたら受験より緊張するものではないだろうか。そう思う。

「話しって、何?」

 放課後の太陽に照らされている拓真君は、いつもより綺麗だなと、女の私でも思ってしまう。

何とか普通にできないものかと思いながら緊張感を隠すのは、予想以上に大変なことだった。

「三原君……うぅん。拓真君!」

 私は思いきって彼に告白した。

***

真司の言ったとおりだった。

紫園からの告白を断ったら、彼女は涙を流しながら、それでも何も口から出さずに走って屋上の出入り口へと消えた。

僕は本当に残酷だ。今まで散々紫園に期待させておいて、彼女ができた瞬間これだ。

「よぉ、優柔不断魔」

「真司……」

図書館での勉強会が終わって、私は拓真君と駅まで一緒に帰った。

「それでさ、集合写真を撮るためにカメラをスタンバイさせたまではいいんだけど、急いでみんなの中に混ざろうとしたときに足を三脚にぶつけちゃって、三脚ごとカメラが明後日の方向向いて撮影失敗。専門の女性カメラマンから眩しいくらいの笑顔で『私がお撮りしましょうか』って言われてさ。結婚式でお約束をするはめになったんだ。恥ずかしかったなぁ。みんなドッと笑ってさ。

 それに他にもあるぜ。二次会のカラオケで、カンの『愛は勝つ』ってあるだろ、あれ歌ったらさ、思いっきり音外れて調子がロックみたいになっちまったんだ。こんな感じ……。

 従兄弟が『愛は勝つ』をロックで歌えるのお前だけだって言って、褒められたんだか何だかなぁ。

『視える。聖飢魔Ⅱのジャックザリッパーが視える。人間のレベルをはるかに超えた歌い方だったよ。魔界の王になれるんじゃないかってくらい』だってさ」

拓真君は以外に面白い人だった。クールな人かなとも思っていたけれど、冗談や笑える嘘で会話に華を咲かせていた。飽きることがない。

でも……。

「拓真君。ホントに必死にならないと、第一志望校確実に無理だね」

 英語の単語・熟語テストはあまりよくなかった。半分しか正解していない。

「一年と二年のとき、サッカーのことしか頭になかったから……そのツケがまわってきた」と、大きく溜め息をついて言うその姿は、とても情けないものだった。

私は思いきって「ホントにサッカーだけ?」と訊く。一つの不安を取り除きたくて。

「本当だって」

「同じ学校の女子は? 追いかけてなかった?」

 私の指摘に拓真君はばつ悪そうな顔をした。眉が歪み、視線は宙をさまよう。

「分かりました。もういい。私が君の家庭教師を務めます」

 拓真君は私が何を言っているのか聞きとれていないか、あるいは意味を呑みこめていないのか、目を丸くして私を見る。

「どうしたの?」

「……え、あ、いや。女子を部屋に入れるのは小学生のとき以来だなって」

「家じゃなくて図書館よ」

 全く。話が飛躍しすぎ。

「そ、そうか。じゃあさ、僕の得意分野を清美には教えるよ」

 ムッとした。

「私。全国模試、二年連続一位ですから」

 同い年に教わることなど、勉強に限って何もない。

 拓真君は悔しそうにがっかりしていた。

「清美。あの子、どうしたんだろう」

 拓真君の言葉で私は思考の海から現実に引き戻された。

「え、何?」

「あの子」

 拓真君が指をさした方向には、小さな子供が泣いていた。

「ちょっと行ってくる」

「私も」

 拓真君が子供に近づいて「どうしたの? お母さんかお父さんは?」と声をかける。

 子供は何の反応も示さない。泣いているのに泣き声もなかった。

 拓真君は少し困ったような顔を浮かべた。

「この近くに交番ってあったっけ?」

「うん、あるよ。こっち」

 子供は意外にも私達を警戒せず、黙ってついてきた。

 そして交番に到着しても子供は何も話さないので、拓真君と私で状況を説明した。

 交番の人は子供に「携帯電話はある?」と訊くが、それにも答えない。

「あのね、ボク。お父さんかお母さんに連絡して来てもらわないと。携帯電話は持ってないの?」

 子供はリュックの中からペンケースとメモ帳を取り出して何かを書き始めた。

『耳は聴こえない。声も出せない』

 身体障害者だった。

 交番の人は『携帯電話はある?』と、自分のメモ帳で訊くも、子供は持っていないと答えた。そして『おじいちゃんとはぐれた』と追記した。

 見ためは小学二年生くらい。今どきその年でも携帯持っていると今まで思っていたが、珍しいこともあるものだ。

「清美。先に帰ってて。僕、さっきの場所に行ってみる」

「え、私も一緒に……」

「僕一人で大丈夫。清美は、もうこれ以上暗くならないうちに帰ったほうがいいよ。女の子の帰りの夜道は危険だから。この子が両親と合流できたらメールする」

 拓真君は携帯を取り出して赤外通信の準備を始めた。

 今日はお父さんの帰りが早い。遅い時間まで同い年の男の子と一緒にいると知ったらどうなることか。たぶんまた門限を決められて軟禁状態にされる。すると拓真君にも会えない。こんなに優しい男の子と会える時間がなくなるのは嫌だ。

「うん、分かった。絶対メールちょうだいね」

「ああ」

 男の子と携帯のやりとりをするのは、私にとってこれが初めてだった。

 結局、子供の保護者――両親ではなく母方の祖父母――が交番に来たのは夜九時ごろだった。

 拓真君はそれまで子供がいた場所で、交番の人と定期的に連絡するかたちでずっと保護者を待っていた。

 損な性格しているけれど、それでも困っている人に優しくできる拓真君が、私は好きだったのだ。

僕と真司はまず受付で自習室の席を取ってもらった。僕はその際、彼女がいるかどうかチラッと座席表の中から捜したが、まだいないようだ。

残念さを感じながらも、この後の英語の単語・熟語テストに備えようと自習室で勉強を始めた。途中、残念さが自然消滅したが、すぐに期待に胸が躍った。彼女が自習室に入ってきて僕の前の席に座ったからだ。

周りに空席はいくらでもある。僕と真司は自習室の一番奥の後ろに座っていたのだから。真司が一番後ろで、その前が僕。そしてさらにその前が彼女。

何かの偶然だろうか、それとも……。

「おい、拓真」と、真司が僕の背中をシャーペンの頭で突きながら小声で話しかけてきた。少し外に出ようという合図をする。

 僕は頷いて答え、真司の後を追った。

「千石清美。何であんなところに? 俺達以外に自習室にいるの、たったの二人じゃねぇか」

「それは僕が知りたいよ」

 真司は顎に手をやる。そしてこう言った。

「次の英単語テストのとき、わざと時間ぎりぎりに教室に入って、千石の隣に座るっての、どうだ?」

「僕らが座る前に誰かに取られたらどうするのさ?」

「俺が何とかするよ。任せとけ」

 

 単語・熟語テストの時間になった。真司は誰よりも早く教室に入り、一番後ろの壁側の席を取る。そしてだんだんと他の予備校生も教室に入っていく。だがそこに清美の姿は見られなかった。

開始五分前になって真司からメールが来た。

『俺の隣の席、二つ取っておいた』

たぶん荷物を置いて占領したのだろう。普段の真司を思い出すと、その行為は真司らしくなかったが、友情のためだろうなんて馬鹿なことを考え、そして教室に入って真司の隣に座った。

「大丈夫かよ?」

 周りに清美の姿は確認できない。

「俺には何の責任もない。あとは運しだいだって」

解答用紙が配られる。と、同時に教室のドアが慌ただしく開く。

「すみません! 遅れてしまいました!」

 千石清美だった。

 清美は講師に睨まれながら慌てて俺の隣の席に座った。他にも開いている席はチラホラとあるのに。わざわざ教室の一番後ろの壁側に座ったのだ。

そして清美は、俺が机に出している予備校のカードをジッと見つめ始めた。

ドキドキした。名前、チェックされてるだろうな。どういう想いでチェックされてるか、僕には二つの想像しかできなかった。

まず、期待しているチェック。

二つ目は嫌悪の想いによるチェック。

どっちだろう。

テストが終了し、他の予備校生達は解放感という新鮮な空気を味会う中で、僕はテストとは別の緊張を感じている。

ペン入れを学生鞄に詰め込んで教室を出ようとした瞬間「三原、拓真君」と、聞き慣れていないシルクを思わせるような声が背後からした。

千石清美だった。

「いつも私と同じくらい、最後まで自習室に残って勉強してるよね?」

「え? あ、ああ、うん。僕、今までの成績悪かったからさ。必死なんだ」

 不意を突かれたような感じでしどろもどろになってしまった。

「ねぇ、この後は自習室?」

「うん。さっそく今日のテストの自己採点や間違えたところをおさえておきたいから」

 清美の口と身体から甘い香りが漂う。思考回路がどこかへ飛んでいきそうだった。

「私もテストの復習をしようかな」

 こんな近くで彼女と話しをしているこの状況に、僕はドキドキした。

 甘い香りと、少し幼げな雰囲気が残っている凛とした顔と姿勢。そして豊な胸。改めて美しいと思った。

「あのさ、図書館で一緒に勉強しない? お互いに教え合いながら」

「え? 自習室は?」と言ってから、しまったと後悔した。

「自習室は私語も会話も禁止でしょ」

「ああ、そうだね。じゃあ図書館に行こうか」

 僕は真司に図書館で清美と勉強することになったことを、嬉しさを交えて報告した。

「気負い過ぎて変なことするなよ」

「僕はそこまでガっついてねぇよ!」

 というような具合に。