次の朝、郵便箱に手紙は入っていなかった。
学校の勉強はたいくつで、時間がやたらと長く感じられた。
休み時間には、ジャスミンにいつも以上にやさしくしようと心がけた。
帰り道、二人は、森の雪が解けて地面が乾いたら、キャンプに行く約束をした。
そしてニイナは、また郵便箱の前に立っていた。
ニイナはまず、メキシコのスタンプのおしてある小さな封筒をあけた。
父の手紙だった。
父は、みんなの顔が見たい、と書いていた。
それから、チェスで一等航海士に初めて勝った、と書いていた。
冬に帰宅した時にもっていった二〇キロの本はほとんど読んでしまった、とも。
そして郵便箱にはこのほかにも、表にニイナの名前が書かれた大きな茶封筒が入っていた!
ニイナはバッグと郵便物を家のなかに入れると、ほら穴に走っていった。
そして、タイプ書きの分厚い紙の束を取り出して、読みはじめた。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
神話が描く世界像
ハロー、ニイナ。
わたしたちの講座は盛りだくさんです。
でえすからさっそく始めましょう。
紀元前六〇〇年前頃にギリシアで始まった哲学によって、
わたしたち人間はまったく新しい考え方を身につけました。
それまでは、さまざまな宗教が人間のあらゆる問いに答えていました。
宗教によるそうした説明は、世代から世代へ、神話の形で語り伝えられました。
神話とは、人間たちはなぜこのような生き方をしているのかを説明しようとする、
神々の物語です。
数千年ものあいだ、世界のいたるところで、神話によるそうした説明がまるで
花園のように乱れ咲いていました。
神話が哲学の問いに答えていたのです。
ところがギリシアの哲学者たちが、
人間はそういう説明に満足しているわけにはいかない、と言い出した。
だから、最初の哲学者たちの考え方を理解するためには、神話で世界を
ちらえるとはどういうことかをつかんでおかなければなりません。
例として北欧の神話を取りあげます。
ここでの目的のためには、ほかのいろいろな神話にまで目配りすることはありません。
槌をもつトールのことは聞いたことがありますね。
キリスト教がノルウェイにやってくる前、ここノルウェイの人びとは、
トールが二頭の雄山羊に曳かせた車に乗って空を行くと信じていた。
トールが槌をふると、稲妻と雷が起こります。
ノルウェイ語の雷(トールデン)はもともと「トール・ドゥン」、「トールのとどろき」という意味です。
スウェーデン語では雷は「オースカ」、本来は「オース・アカ」ですが、
これは「神々の天の道行き」という意味です。
雷が鳴り稲妻が走ると、雨も降る。
ヴァイキング時代の農民にとって、雨は生きていく上で欠かせない、大切なものだった。
それでトールはおそるべき神として敬われたのです。
なぜ雨が降るのかということへの神話の答えは、だから、トールが槌をふるったから、
なのでした。
そして雨が降ると、畑には穀物が芽吹き、成長しました。
なぜ畑に植物が生えて実りをもたらすのか、それは結局のところわけがわかりませんでした。
けれども農民たちは、これはどうも雨と関係ある、ということは知っていた。
それから、雨は雷とつながりがあるらしいということも。
そんなわけで、北欧ではトールは最大級の力をもつ神とされたのです。
トールが重きをおかれたのには、もう一つわけがありました。
トールは全世界の秩序の維持ともかかわっていました。
ヴァイキングたちは、自分たちの世界を島だと考えていました。
この島はたえず外からおびやかされいます。
世界のこの一角を、ヴァイキングたちはミッドガールと名づけました。
まんなかにある国、という意味です。
ミッドガールにはさらにオスガール、神々の故郷がありました。
ミッドガールはウトガール、つまり外の国と接していました。
ここのは恐ろしいトロールたちが住んでいて、いつも世界を滅ぼそうとたくらんでいる。
トロールのような悪の怪物は、ひっくるめて「渾沌(カオス)の勢力」とも呼ばれます。
ノルウェイの宗教でもほかのほとんどの文化でも、
人びとは、いい力と悪い力があやういバランスを保っている、と感じていました。
トロールがミッドガールにダメージをあたえる手口の一つに、
豊饒の女神フレイヤを奪う、というのがありました。
フレイヤがいなければ、畑に植物は生えないし、女たちは子どもを産まない。
だからなにがなんでも、善い神々がトロールを押さえこんでくれなければ困るのです。
ここでもトールが主役です。
トールの槌は雨を降らせるだけではなく、危険な渾沌の勢力と戦うための武器ともなる。
槌をもてばトールには絶大な力がそなわります。
たとえば、トールは槌をトロールに投げつけて殺すことができる。
それで槌がなくなる心配はない。
槌はまるでブーメランのように、いつもトールのもとに帰ってきます。
これが、自然のバランスはどのように保たれているか、なぜ善と悪はつねに
戦いつづけるのかということへの、神話による説明です。
哲学者たちが、とうてい受けいれられない、と考えたのがまさにこういう説明だった。
ところで、神話で説明がつけばそれでいいかというと、そんなことはなかった。
干ばつや疫病などの禍いにおびやかされると、人間は神々がなんとかしてくれるのを、
ただ手をこまねいて待ってはいられませんでした。
人間自身、いてもたってもいられなくて悪との闘いに加わった。
それは、宗教的なさまざまは営み、つまり儀礼をとりおこなうということでした。
太古のノルウェイにはきわめて重要な宗教的な営みがありました。
犠牲(いけにえ)です。
犠牲を捧げられると、神々はよりいっそう強くなりました。
神々には渾沌の勢力をうちひしぐほど強くなってもらうために、
人間たちは犠牲を捧げる必要があったのです。
捧げられるのは動物で、たとえばトールにはふつう雄山羊が奉納されたようです。
オーディンには人間が捧げられることもありました。
ノルウェイのいちばん有名な神話は、『スリュムの歌』というエッダ、
北欧の神々の叙事詩に出てきます。
こんな物語です。
トールが眠っています。
目が覚めると、槌がない。
トールは怒りのあまり髭をビリビリふるわせ、髪をさかだてた。
トールは従神ロキをつれてフレイヤのところへ行き、翼を貸してほしい、と言いました。
その翼をつけたロキがユートゥンハイメンまで飛んでいって、
トロールがトールの槌を隠していないかどうか調べてくる、というのです。
その地でロキはトロールの王、スリュムに出会います。
スリュムは得意満面で、その槌なら自分が地の底ハマイルのところに埋めた、と言います。
そして豊饒の女神、フレイヤを嫁にくれたら槌を返してやる、と。
どいうことだかわかる?ニイナ。
善い神々は、突然とんでもない人質事件に直面したのです。
今やトロールたちは、神々のもっとも大切な武器を手中におさめている。
これはのっぴきならない事態です。
トロールたちは、トールの槌をもっているかぎり、
神々と人間の世界にたいして生殺与奪の力を握っている。
槌を返してほしければフレイヤをよこせという。
けれどもこの交換条件ものめたものではない。
もしもあらゆる命を守る豊饒の女神を引き渡してしまえば、
畑の緑は枯れ、神々も人間も死んでしまうのだから。
にっちもさっちもいかないとはこのことです。
ロンドンかパリのまんなかでテロリスト集団が、危険な要求がとおらなければ
爆弾に火をつける、と脅迫しているところを想像すれば、
きっとわたしの話はわかってもらえるでしょう。
神話はつづきます。
ロキはオスガールに帰って、フレイヤに、花嫁衣裳を着るように言いました。
これからトロールと結婚式をあげることになっているから、と。
いやですよね、そんなの!
フレイヤはかんかんに怒って言います。
トロールなどと結婚したら、見境がないと思われる、と。
その時、ヘイムダルという神がいいことを思いついた。
トールが花嫁に変装すればいい、
髪を結って胸に石ころを縛りつければ女に見える、というのです。
もちろんトールは、こんなアイディアに乗り気ではないけれど、
結局は神々が槌を取りもどすにはそれしかない、ということになった。
トールは花嫁に化け、ロキは付添いの乙女としてトールについていく。
「さあ、わたしたち二人の女、トロールどものもとへまいりましょう」とロキは言いました。
現代風に言うなら、トールとロキは神々の「対テロリスト特殊部隊(ロマンド)」
といったところです。
女装した二人は、トールの槌奪還のためにユートゥンハイメンのトロールの城に乗りこんだ。
次回へつづく
学校の勉強はたいくつで、時間がやたらと長く感じられた。
休み時間には、ジャスミンにいつも以上にやさしくしようと心がけた。
帰り道、二人は、森の雪が解けて地面が乾いたら、キャンプに行く約束をした。
そしてニイナは、また郵便箱の前に立っていた。
ニイナはまず、メキシコのスタンプのおしてある小さな封筒をあけた。
父の手紙だった。
父は、みんなの顔が見たい、と書いていた。
それから、チェスで一等航海士に初めて勝った、と書いていた。
冬に帰宅した時にもっていった二〇キロの本はほとんど読んでしまった、とも。
そして郵便箱にはこのほかにも、表にニイナの名前が書かれた大きな茶封筒が入っていた!
ニイナはバッグと郵便物を家のなかに入れると、ほら穴に走っていった。
そして、タイプ書きの分厚い紙の束を取り出して、読みはじめた。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
神話が描く世界像
ハロー、ニイナ。
わたしたちの講座は盛りだくさんです。
でえすからさっそく始めましょう。
紀元前六〇〇年前頃にギリシアで始まった哲学によって、
わたしたち人間はまったく新しい考え方を身につけました。
それまでは、さまざまな宗教が人間のあらゆる問いに答えていました。
宗教によるそうした説明は、世代から世代へ、神話の形で語り伝えられました。
神話とは、人間たちはなぜこのような生き方をしているのかを説明しようとする、
神々の物語です。
数千年ものあいだ、世界のいたるところで、神話によるそうした説明がまるで
花園のように乱れ咲いていました。
神話が哲学の問いに答えていたのです。
ところがギリシアの哲学者たちが、
人間はそういう説明に満足しているわけにはいかない、と言い出した。
だから、最初の哲学者たちの考え方を理解するためには、神話で世界を
ちらえるとはどういうことかをつかんでおかなければなりません。
例として北欧の神話を取りあげます。
ここでの目的のためには、ほかのいろいろな神話にまで目配りすることはありません。
槌をもつトールのことは聞いたことがありますね。
キリスト教がノルウェイにやってくる前、ここノルウェイの人びとは、
トールが二頭の雄山羊に曳かせた車に乗って空を行くと信じていた。
トールが槌をふると、稲妻と雷が起こります。
ノルウェイ語の雷(トールデン)はもともと「トール・ドゥン」、「トールのとどろき」という意味です。
スウェーデン語では雷は「オースカ」、本来は「オース・アカ」ですが、
これは「神々の天の道行き」という意味です。
雷が鳴り稲妻が走ると、雨も降る。
ヴァイキング時代の農民にとって、雨は生きていく上で欠かせない、大切なものだった。
それでトールはおそるべき神として敬われたのです。
なぜ雨が降るのかということへの神話の答えは、だから、トールが槌をふるったから、
なのでした。
そして雨が降ると、畑には穀物が芽吹き、成長しました。
なぜ畑に植物が生えて実りをもたらすのか、それは結局のところわけがわかりませんでした。
けれども農民たちは、これはどうも雨と関係ある、ということは知っていた。
それから、雨は雷とつながりがあるらしいということも。
そんなわけで、北欧ではトールは最大級の力をもつ神とされたのです。
トールが重きをおかれたのには、もう一つわけがありました。
トールは全世界の秩序の維持ともかかわっていました。
ヴァイキングたちは、自分たちの世界を島だと考えていました。
この島はたえず外からおびやかされいます。
世界のこの一角を、ヴァイキングたちはミッドガールと名づけました。
まんなかにある国、という意味です。
ミッドガールにはさらにオスガール、神々の故郷がありました。
ミッドガールはウトガール、つまり外の国と接していました。
ここのは恐ろしいトロールたちが住んでいて、いつも世界を滅ぼそうとたくらんでいる。
トロールのような悪の怪物は、ひっくるめて「渾沌(カオス)の勢力」とも呼ばれます。
ノルウェイの宗教でもほかのほとんどの文化でも、
人びとは、いい力と悪い力があやういバランスを保っている、と感じていました。
トロールがミッドガールにダメージをあたえる手口の一つに、
豊饒の女神フレイヤを奪う、というのがありました。
フレイヤがいなければ、畑に植物は生えないし、女たちは子どもを産まない。
だからなにがなんでも、善い神々がトロールを押さえこんでくれなければ困るのです。
ここでもトールが主役です。
トールの槌は雨を降らせるだけではなく、危険な渾沌の勢力と戦うための武器ともなる。
槌をもてばトールには絶大な力がそなわります。
たとえば、トールは槌をトロールに投げつけて殺すことができる。
それで槌がなくなる心配はない。
槌はまるでブーメランのように、いつもトールのもとに帰ってきます。
これが、自然のバランスはどのように保たれているか、なぜ善と悪はつねに
戦いつづけるのかということへの、神話による説明です。
哲学者たちが、とうてい受けいれられない、と考えたのがまさにこういう説明だった。
ところで、神話で説明がつけばそれでいいかというと、そんなことはなかった。
干ばつや疫病などの禍いにおびやかされると、人間は神々がなんとかしてくれるのを、
ただ手をこまねいて待ってはいられませんでした。
人間自身、いてもたってもいられなくて悪との闘いに加わった。
それは、宗教的なさまざまは営み、つまり儀礼をとりおこなうということでした。
太古のノルウェイにはきわめて重要な宗教的な営みがありました。
犠牲(いけにえ)です。
犠牲を捧げられると、神々はよりいっそう強くなりました。
神々には渾沌の勢力をうちひしぐほど強くなってもらうために、
人間たちは犠牲を捧げる必要があったのです。
捧げられるのは動物で、たとえばトールにはふつう雄山羊が奉納されたようです。
オーディンには人間が捧げられることもありました。
ノルウェイのいちばん有名な神話は、『スリュムの歌』というエッダ、
北欧の神々の叙事詩に出てきます。
こんな物語です。
トールが眠っています。
目が覚めると、槌がない。
トールは怒りのあまり髭をビリビリふるわせ、髪をさかだてた。
トールは従神ロキをつれてフレイヤのところへ行き、翼を貸してほしい、と言いました。
その翼をつけたロキがユートゥンハイメンまで飛んでいって、
トロールがトールの槌を隠していないかどうか調べてくる、というのです。
その地でロキはトロールの王、スリュムに出会います。
スリュムは得意満面で、その槌なら自分が地の底ハマイルのところに埋めた、と言います。
そして豊饒の女神、フレイヤを嫁にくれたら槌を返してやる、と。
どいうことだかわかる?ニイナ。
善い神々は、突然とんでもない人質事件に直面したのです。
今やトロールたちは、神々のもっとも大切な武器を手中におさめている。
これはのっぴきならない事態です。
トロールたちは、トールの槌をもっているかぎり、
神々と人間の世界にたいして生殺与奪の力を握っている。
槌を返してほしければフレイヤをよこせという。
けれどもこの交換条件ものめたものではない。
もしもあらゆる命を守る豊饒の女神を引き渡してしまえば、
畑の緑は枯れ、神々も人間も死んでしまうのだから。
にっちもさっちもいかないとはこのことです。
ロンドンかパリのまんなかでテロリスト集団が、危険な要求がとおらなければ
爆弾に火をつける、と脅迫しているところを想像すれば、
きっとわたしの話はわかってもらえるでしょう。
神話はつづきます。
ロキはオスガールに帰って、フレイヤに、花嫁衣裳を着るように言いました。
これからトロールと結婚式をあげることになっているから、と。
いやですよね、そんなの!
フレイヤはかんかんに怒って言います。
トロールなどと結婚したら、見境がないと思われる、と。
その時、ヘイムダルという神がいいことを思いついた。
トールが花嫁に変装すればいい、
髪を結って胸に石ころを縛りつければ女に見える、というのです。
もちろんトールは、こんなアイディアに乗り気ではないけれど、
結局は神々が槌を取りもどすにはそれしかない、ということになった。
トールは花嫁に化け、ロキは付添いの乙女としてトールについていく。
「さあ、わたしたち二人の女、トロールどものもとへまいりましょう」とロキは言いました。
現代風に言うなら、トールとロキは神々の「対テロリスト特殊部隊(ロマンド)」
といったところです。
女装した二人は、トールの槌奪還のためにユートゥンハイメンのトロールの城に乗りこんだ。
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