次の朝、郵便箱に手紙は入っていなかった。
学校の勉強はたいくつで、時間がやたらと長く感じられた。
休み時間には、ジャスミンにいつも以上にやさしくしようと心がけた。
帰り道、二人は、森の雪が解けて地面が乾いたら、キャンプに行く約束をした。

そしてニイナは、また郵便箱の前に立っていた。
ニイナはまず、メキシコのスタンプのおしてある小さな封筒をあけた。
父の手紙だった。
父は、みんなの顔が見たい、と書いていた。
それから、チェスで一等航海士に初めて勝った、と書いていた。
冬に帰宅した時にもっていった二〇キロの本はほとんど読んでしまった、とも。

そして郵便箱にはこのほかにも、表にニイナの名前が書かれた大きな茶封筒が入っていた!
ニイナはバッグと郵便物を家のなかに入れると、ほら穴に走っていった。
そして、タイプ書きの分厚い紙の束を取り出して、読みはじめた。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
神話が描く世界像

ハロー、ニイナ。
わたしたちの講座は盛りだくさんです。
でえすからさっそく始めましょう。
紀元前六〇〇年前頃にギリシアで始まった哲学によって、
わたしたち人間はまったく新しい考え方を身につけました。
それまでは、さまざまな宗教が人間のあらゆる問いに答えていました。
宗教によるそうした説明は、世代から世代へ、神話の形で語り伝えられました。

神話とは、人間たちはなぜこのような生き方をしているのかを説明しようとする、
神々の物語です。
数千年ものあいだ、世界のいたるところで、神話によるそうした説明がまるで
花園のように乱れ咲いていました。
神話が哲学の問いに答えていたのです。
ところがギリシアの哲学者たちが、
人間はそういう説明に満足しているわけにはいかない、と言い出した。

だから、最初の哲学者たちの考え方を理解するためには、神話で世界を
ちらえるとはどういうことかをつかんでおかなければなりません。
例として北欧の神話を取りあげます。
ここでの目的のためには、ほかのいろいろな神話にまで目配りすることはありません。

槌をもつトールのことは聞いたことがありますね。
キリスト教がノルウェイにやってくる前、ここノルウェイの人びとは、
トールが二頭の雄山羊に曳かせた車に乗って空を行くと信じていた。
トールが槌をふると、稲妻と雷が起こります。
ノルウェイ語の雷(トールデン)はもともと「トール・ドゥン」、「トールのとどろき」という意味です。
スウェーデン語では雷は「オースカ」、本来は「オース・アカ」ですが、
これは「神々の天の道行き」という意味です。

雷が鳴り稲妻が走ると、雨も降る。
ヴァイキング時代の農民にとって、雨は生きていく上で欠かせない、大切なものだった。
それでトールはおそるべき神として敬われたのです。

なぜ雨が降るのかということへの神話の答えは、だから、トールが槌をふるったから、
なのでした。
そして雨が降ると、畑には穀物が芽吹き、成長しました。

なぜ畑に植物が生えて実りをもたらすのか、それは結局のところわけがわかりませんでした。
けれども農民たちは、これはどうも雨と関係ある、ということは知っていた。
それから、雨は雷とつながりがあるらしいということも。
そんなわけで、北欧ではトールは最大級の力をもつ神とされたのです。
トールが重きをおかれたのには、もう一つわけがありました。
トールは全世界の秩序の維持ともかかわっていました。

ヴァイキングたちは、自分たちの世界を島だと考えていました。
この島はたえず外からおびやかされいます。
世界のこの一角を、ヴァイキングたちはミッドガールと名づけました。
まんなかにある国、という意味です。
ミッドガールにはさらにオスガール、神々の故郷がありました。
ミッドガールはウトガール、つまり外の国と接していました。
ここのは恐ろしいトロールたちが住んでいて、いつも世界を滅ぼそうとたくらんでいる。
トロールのような悪の怪物は、ひっくるめて「渾沌(カオス)の勢力」とも呼ばれます。
ノルウェイの宗教でもほかのほとんどの文化でも、
人びとは、いい力と悪い力があやういバランスを保っている、と感じていました。

トロールがミッドガールにダメージをあたえる手口の一つに、
豊饒の女神フレイヤを奪う、というのがありました。
フレイヤがいなければ、畑に植物は生えないし、女たちは子どもを産まない。
だからなにがなんでも、善い神々がトロールを押さえこんでくれなければ困るのです。

ここでもトールが主役です。
トールの槌は雨を降らせるだけではなく、危険な渾沌の勢力と戦うための武器ともなる。
槌をもてばトールには絶大な力がそなわります。
たとえば、トールは槌をトロールに投げつけて殺すことができる。
それで槌がなくなる心配はない。
槌はまるでブーメランのように、いつもトールのもとに帰ってきます。

これが、自然のバランスはどのように保たれているか、なぜ善と悪はつねに
戦いつづけるのかということへの、神話による説明です。
哲学者たちが、とうてい受けいれられない、と考えたのがまさにこういう説明だった。

ところで、神話で説明がつけばそれでいいかというと、そんなことはなかった。
干ばつや疫病などの禍いにおびやかされると、人間は神々がなんとかしてくれるのを、
ただ手をこまねいて待ってはいられませんでした。
人間自身、いてもたってもいられなくて悪との闘いに加わった。
それは、宗教的なさまざまは営み、つまり儀礼をとりおこなうということでした。

太古のノルウェイにはきわめて重要な宗教的な営みがありました。
犠牲(いけにえ)です。
犠牲を捧げられると、神々はよりいっそう強くなりました。
神々には渾沌の勢力をうちひしぐほど強くなってもらうために、
人間たちは犠牲を捧げる必要があったのです。
捧げられるのは動物で、たとえばトールにはふつう雄山羊が奉納されたようです。
オーディンには人間が捧げられることもありました。

ノルウェイのいちばん有名な神話は、『スリュムの歌』というエッダ、
北欧の神々の叙事詩に出てきます。
こんな物語です。
トールが眠っています。
目が覚めると、槌がない。
トールは怒りのあまり髭をビリビリふるわせ、髪をさかだてた。
トールは従神ロキをつれてフレイヤのところへ行き、翼を貸してほしい、と言いました。
その翼をつけたロキがユートゥンハイメンまで飛んでいって、
トロールがトールの槌を隠していないかどうか調べてくる、というのです。
その地でロキはトロールの王、スリュムに出会います。
スリュムは得意満面で、その槌なら自分が地の底ハマイルのところに埋めた、と言います。
そして豊饒の女神、フレイヤを嫁にくれたら槌を返してやる、と。

どいうことだかわかる?ニイナ。
善い神々は、突然とんでもない人質事件に直面したのです。
今やトロールたちは、神々のもっとも大切な武器を手中におさめている。
これはのっぴきならない事態です。
トロールたちは、トールの槌をもっているかぎり、
神々と人間の世界にたいして生殺与奪の力を握っている。
槌を返してほしければフレイヤをよこせという。
けれどもこの交換条件ものめたものではない。
もしもあらゆる命を守る豊饒の女神を引き渡してしまえば、
畑の緑は枯れ、神々も人間も死んでしまうのだから。
にっちもさっちもいかないとはこのことです。

ロンドンかパリのまんなかでテロリスト集団が、危険な要求がとおらなければ
爆弾に火をつける、と脅迫しているところを想像すれば、
きっとわたしの話はわかってもらえるでしょう。

神話はつづきます。
ロキはオスガールに帰って、フレイヤに、花嫁衣裳を着るように言いました。
これからトロールと結婚式をあげることになっているから、と。
いやですよね、そんなの!
フレイヤはかんかんに怒って言います。
トロールなどと結婚したら、見境がないと思われる、と。

その時、ヘイムダルという神がいいことを思いついた。
トールが花嫁に変装すればいい、
髪を結って胸に石ころを縛りつければ女に見える、というのです。
もちろんトールは、こんなアイディアに乗り気ではないけれど、
結局は神々が槌を取りもどすにはそれしかない、ということになった。
トールは花嫁に化け、ロキは付添いの乙女としてトールについていく。
「さあ、わたしたち二人の女、トロールどものもとへまいりましょう」とロキは言いました。

現代風に言うなら、トールとロキは神々の「対テロリスト特殊部隊(ロマンド)」
といったところです。
女装した二人は、トールの槌奪還のためにユートゥンハイメンのトロールの城に乗りこんだ。


やじるし次回へつづく





ある朝、パパとママと小さなトムが、そう、二つか三つの男の子です。
キッチンで朝食を食べている。
ママが立ちあがり、流し台のほうに行く、
するとそう、突然パパが天井近くまでフワッと浮かびあがる。
トムはなんて言ったと思う?
たぶんパパを指さして、
「パパが飛んでる!」と言うでしょう。

もちろんトムはびっくりだけど、どうせトムはいつもびっくりしています。
パパはいろいろおかしなことをするから、ちょっとばかり朝食のテーブルの上を飛ぶなんて、
トムの目には別にたいしたことには映らない。
パパは毎日へんてこな機械で髭をそるし、しょっちゅう屋根に登って、
テレビのアンテナをあちこちひん曲げる。
かと思うと、自転車に首をつっこんで、鴉みたいにまっ黒になって出てくる。

さて、こんどはママの番です。
ママはトムの声に、何気なくふり返る。
ニイナは、キッチンのテーブルの上を飛びまわるパパを見て、ママがどう反応すると思う?
ママの手からジャムのガラスビンが落ち、ママはびっくり仰天してけたたましく呼びます。
パパが椅子に戻ったあと、ひょっとしたらママは医者に診てもらわなければならないかもしれない。
(パパがテーブルマナーを守らなかったばっかりに、とんだ大騒ぎだ。)

どうしてトムとママの反応はこんなに違うのかな?
ニイナはどう思う?
これは「習慣」の問題です。(この言葉、メモして!)
ママは、人間は飛べないということをとっくに学んでいる。
トムは学んでいない。
トムはまだ、この世界では何がありで何がありではないか、よく知らない。

でもニイナ、この世界そのものはどうなっているんだったっけ?
こんな世界はありかな?
世界もパパのように宇宙空間にフワフワと漂っているんじゃなかったっけ・・・・・・。
悲しいことに、わたしたちは大人になるにつれ、重力の法則に慣れっこになるだけではない。
世界そのものに慣れっこになってしますのです。

わたしたちは子どものうちに、この世界に驚く能力を失ってしますらしい。
それによって、わたしたちは大切な何かを失う。
哲学者たちは、その何かをもう一度目覚めさせようとします。
なぜなら、わたしたちの心のどこかで何かが、生きていることは大きな謎だ、
と語りかけているからです。
わたしたちは、生きることについて考えるのを学ぶずっと以前から、
この語りかけを聞いているのです。

もっとはっきり言いましょう。
人はだれでも哲学の問いに向きあいはするけれど、
だからといってすべての人が哲学者になるのではありません。
ほとんどの人びとは、さまざまな理由から日常にとらわれて、
生きることへの驚きを深いところに押しこんでしまう。
(人びとは兎の毛の奥深くにもぐりこみ、そこの居心地がよくなって、
人生の残りを毛皮の中で過ごすのです。)

子どもにとって世界は、そして世界にある全てのものは驚きを呼びさます「新しいもの」です。
大人はそんな見方はしない。
たいていの大人は、世界を当たり前のこちとして受けいれている。
だからこそ、哲学者たちは大変珍しい例外なのです。
哲学者には、世界にすっかり慣れっこになるなど、どうしてもできない。
男でも女でも、哲学者にとって世界はいつまでたってもわけがわからない。

そう、謎だらけで秘密めいている。
哲学者と幼い子どもは、大切なところで似た者同士なわけです。
哲学者は、一生幼い子どものままでいる例外人間と言えるでしょう。
さあ、親愛なるニイナ、あなたは今、選ばなければならない。
ニイナは、まだ世界に「慣れっこ」になっていない子どもかな?
それとも、慣れっこになど絶対にならないと誓って言える哲学者かな?

もしもニイナがあっさりと首を横にふって、自分は子どもだとも、
また哲学者だとも思っていないと言うなら、それはニイナが、
もう世界に驚かされることもないほどに、この世界に慣れっこになっているのです。
だとしたら、危険はもうすぐそこまで迫っている。
だからこそ、この哲学講座が届いたのです。
わたしは、ほかでもないニイナが、投げやりで無関心な人びとの仲間であってほしくない。

はつらつと生きる人であってほしいのです。
この講座はいっさい無料です。
だから、受けないことにしても払い戻しはありません。
もしもある日やめたくなっても、ちっともかまわない。
郵便箱にわたし宛ての通知を入れるだけでいい。
生きた蛙とか、まあ、なんでもいいでしょう、あまり郵便屋さんを驚かしたくないから、
何か緑色のものを入れておいてください。

短いまとめ。
白兎は空っぽのシルクハットから引っぱり出されます。
とても大きな兎なので、この手品の仕込みには数億年かかります。
か細い毛の先っぽに、全ての人の子が生まれるでしょう。
だから全ての人の子は、このありえない手品に驚きあきれるでしょう。
けれども、人の子たちは大きくなると、どんどん兎の毛の根元のほうへともぐりこむ。

そしてそこにうずくまる。
そこはあんまり居心地がいいもので、
毛皮のか細い毛をもう一度上までよじ登ろうなどという気は起こさない。
哲学者たちだけが、言葉と存在のいちばんはしっこまでの危険な旅に果敢に乗り出します。
なかには途中で行方不明になってしまう人びともいるけれど、
兎の毛にしっかりとしがみついて、
ずっと下のほうで白い毛にヌクヌクとうずくまって
お腹いっぱい食べたり飲んだりしている人びとに呼びかける哲学者たちもいる。

「みなさーん、わたしたちは空っぽの空間に漂っていますよー!」
けれども、毛の根っこにいるだれ一人、哲学者たちのそんな叫び声には耳をかさない。
「やれやれ、うるさい連中だなあ」と人びとは言います。
そして、さっきの話の続きをします。
バター取ってくれる?
今日の株式市況はどうかな?
このトマトいくらした?
ねえねえ、聞いた?
レディ・ディがまた妊娠したらしいってよ!

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

夕方、母が帰ってきた時、ニイナは呆然としていた。
謎の哲学者の手紙を入れた缶はしっかりとほら穴に隠してあった。
ニイナは宿題に向かおうとしたが、さっき読んだことで頭がいっぱいだった。
今まで、こんなにどっさり考えたことなんてなかった!
わたしはもう子どもではない。
でも、まだ一人前の大人でもない。

ニイナは、自分がもう、黒いシルクハットから引き出された
世界という兎のフカフカの毛の奥深くにもぐりこもうとしていた、ということがよくわかった。
けれども今、あの哲学者がわたしを連れ戻してくれた。
彼-------それとも彼女?-------は、
わたしの首根っこをしっかりとつかんで、
子どものわたしが遊んでいた毛の先のほうにもう一度連れ出してくれた。

そしてわたしはか細い毛の先っぽで、
世界をもう一度、まるで初めて見るように見ている。
あの哲学者はわたしを救ってくれた。
ニイナは母をリビングルームに連れてきて、無理矢理ソファに座らせた。
「ママ、生きているっておかしなことだと思わない?」
母はびっくりしたあまり、とっさに答えが思いつかなかった。

いつもなら、母が帰ってくると、ニイナは宿題に向かっていた。
「そうねえ、たしかに時どきは思うわね」
「時どき?あのさあ、だいたい世界があるって、おかしなことだと思わない?」
「ちょっとニイナ、あなたなんのことを言ってるの?」
「ママに聞いてるの。ママは、世界なんてまるでどうってことないと思う?」
「そうね、そうだわね。だいたいはね」

ニイナは、あの哲学者は正しい、と思った。
大人は世界を当たり前だと思っている。
大人はありきたりの生活といういばら姫の眠りに落ちたきり、ぐっすりと眠りこけている。
「あーあ!ママったら、もう世界がママを驚かすこともないくらい、
この世界に慣れっこになってるのね」
「悪いけど、何を言ってるのかさっぱりわからない」

「この世界に慣れっこになっちゃってるのねって、言ったの。
ほかの言い方だと、どうかしてるってこと」
「そんな口のきき方をするもんじゃありません、ニイナ」
「じゃあ、もっとほかの言い方をする。ママは、
たった今黒いシルクハットから引っぱり出された世界っていう兎の毛の奥でヌクヌクとしているの。
そしてもうすぐじゃがいもを火にかけようとしているの。
そのあと新聞を読んで、三十分こっくりこっくりして、
それからテレビのニュースを見るの」

母の顔を心配そうな表情がサッとかすめた。
母は本当にキッチンに行って、じゃがいもを火にかけた。
そしてすぐにリビングに戻ってくると、今度は母がニイナをソファに座らせた。
「ちょっとお話があるの」母は切り出した。
その声からニイナは、なにか真面目な話なのだ、とピンときた。
「あなた、どっかにドラッグを隠しているんじゃない?」
ニイナはあ思わず笑ってしまった。
でもこんな質問が飛び出すのも無理はないとも思った。
「おかしなママ!そんなものやったら、もっとドン臭くなっちゃうじゃない!」
この日はもう、ドラッグのことも白兎のことも話題にならなかった。


第3話----神話へつづく
ニイナは、匿名の手紙の主がまたなにか言ってくるのを待つことにした。
そして、当分この手紙のことはだれにも黙っていよう、と決めた。
学校では授業になかなか身が入らなかった。

ニイナは突然、先生はどうでもいいことばかりしゃべっている、と気がついた。
どうして先生は、人間とは何かとか、世界とは何かとか、世界はどのようにしてできたかとか、
そういう話をしてくれないのだろう?

学校でもどこでも、みんなどうでもいいようなことにかかずらっている。
学校の勉強よりもずっと大切な、
考えなくてはならない大きくてむずかしい問題があるのに-----こんな気持ちは初めてだった。

ああいう問いに答えた人なんているのかしら?
ニイナは、不規則助動詞の変化をとなえるよりもそっちを考えるほうが大切だ、と思った。
最後の授業の終わりのチャイムが鳴ると、ニイナはあっというまに校門を飛び出した。
ジャスミンがあわてて追いかけてきた。
少しして、ジャスミンがたずねた。
「今夜、トランプしない?」
ニイナは肩をすくめた。
「そうねえ、わたしもう、トランプ飽きちゃった」

ジャスミンはびっくりしたようだった。
「飽きちゃったって?じゃあ、バドミントンする?」
ニイナはアスファルトを、それから友だちを見つめた。
「そうねえ、わたしもう、バドミントンも飽きちゃった」
「じゃあ、いいわよ!」
ジャスミンの声にとげとげしい響きがあった。

「何が急にそんなに大切になっちゃったのか、話してくれてもいいと思うけど」
ニイナは首を横にふった。
「それは・・・・・秘密なの」
「へーえ!あなた、だれかさんのこと好きになったんだ!」
話しがとぎれたまま、二人は並んで歩いていった。
サッカー場まで来た時、ジャスミンが言った。

「わたし、サッカー場をつっきるわ」
“サッカー場をつっきる”のはジャスミンの近道だったけれど、ジャスミンが近道をするのは、
お客があるとか歯医者の予約があるとかで、いそいで帰らなければならない時だけだった。
ジャスミンを傷つけてしまって、つらいな、とニイナは思った。

でも、なんて答えたらよかった?
わたしはだれかってことと、世界はどうやってできたのかってことで急に忙しくなったから、
バドミントンをする暇がないって言う?
そんなこと、ジャスミンはわかってくれただろうか?

なによりも大切なのは、そしてなによりも当然な問題にとりくむのが、
どうしてこんなにやっかいなのだろう?
郵便箱をあける時、ニイナは胸がドキドキしてくるのがわかった。
ちらっと見たところでは、口座通知と母宛の大きな茶封筒が何通かあるだけだった。

つまんないの。
ニイナは見知らぬ差出人の手紙がまたきていることを、心から待ち望んでいたのだ。
門をしめながら、ニイナは大きな封筒の一つに自分の名前があることに気がついた。
裏側には「哲学講座  親展」と書いてある。

ニイナは砂利道を走っていって、バッグを階段の上に置いた。
そして残りの郵便物を玄関マットの下につっこむと、庭を横切ってほら穴の隠れ家に向かった。
この大きな手紙は、どうしてもあそこで開かなくては。
レオがついてきたが、どうしようもない。

でも、猫はぜったいにおしゃべりしないから大丈夫。
封筒にはタイプで打った大判の紙が三枚入っていた。
クリップで止めてある。
ニイナは読みはじめた。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

哲学とはなにか?

親愛なるニイナ

世の中にはいろんな趣味があるものです。
古いコインや切手を集めている人はざらだし、手芸に凝る人もいます。
暇さえあればスポーツに打ちこむ人もいます。
読書好きもけっこういます。
けれども、何を読むかはじつにさまざまです。
新聞かマンガしか読まない人もいれば、小説ファンもいる。
天文学とか、動物の生態とか、科学の発見とか、いろんなテーマに手を伸ばす人もいる。
もしもわたしが馬や宝石の愛好家だったとして、
ほかのすべての人と趣味の話で盛り上がるとは期待できません。
わたしがテレビのスポーツ番組には目がないとしても、スポーツなんかつまらないと
言う人がいることは、まあ、そんなものだと思うしかない。
すべての人に関心のあることなんてあるだろうか?
だれにでも、世界のどこに住んでいる人にでも、あらゆる人間がかかわらなければ
ならない問題をあつかうのが、この講座です。
生きていく上でいちばん大切なものはなんだろう?
もしも、飢えている人びとにたずねたら、答えは食べることですね。
同じ質問を凍えている人にしたならば、答えは暖かさです。
さらに、一人ぼっちでさびしがっている人にたずねたとしましょうか、
答えは決まってますね、ほかの人びととのつきあいです。
けれども、こういう基本条件がすべて満たされたとして、
それでもまだ、あらゆる人にとって切実なものはあるだろうか?
哲学者たちは、ある、と言います。
哲学者たちは、人はパンのみで生きるのではない、と考えるのです。
もちろん、人はみな、食べなければならない。
愛と気配りも必要です。
けれども、すべての人びとにとって切実なものはまだある。
わたしたちはだれなのか、なぜ生きているのか、
それを知りたいという切実な欲求を、わたしたちはもっているのです。
わたしたちはなぜ生きているのか、ということへの関心は、だから、
たとえば切手のコレクションのような、
いわば「ひょんなきっかけではまってしまう」興味とは別物です。
この問題に関心をもった人は、
わたしたち人間がこの惑星に生きてきたのとほとんど同じくらい
長いこと議論されてきたことがらにかかわることになる。
宇宙と地球と生命はどのようにしてできたのか、ということは、このあいだの
オリンピックでだれがいちばんたくさん金メダルをとったか、
ということよりもずっと大きな、ずっと大切な問題なのです。

哲学の世界に入っていくいちばんいい方法は問題意識をもつこと、つまり、
哲学の問いを立てることです。
世界はどのようにつくられたのか?
今ここで起こっていることの背後には意志や意味があるのか?
死後の命はあるのか?
どうしたらこういう問いの答えが見つかるのか?
そしてなによりも、わたしたちはいかに生きるべきか?
こうしたことを人間はいつだって問いかけてきました。
人間とは何か、世界はどのようにしてできたかと問わなかった文化はありません。
哲学の問いは、それほどいろいろと立てられるものでもありません。
いちばん大切な二つの問いはもう立てました。
ところがそれにたいして哲学の歴史が教えてくれる答えは、それこそさまざまです。
だから、問いに答えようとするよりも問いを立てる、このほうが哲学に入っていきやすいのです。

今でも、一人ひとりがこれらの問いに自分流の答えを見つけなければなりません。
神はいるかとか、死後の生はあるかとかを、事典で調べることはできない。
事典は、わたしたちはいかに生きるべきか、ということにも答えてくれない。
でも、生命や世界について自分なりのイメージをもとうとするなら、
ほかの人たちの考えを知ることは助けになります。
真理を追い求める哲学者たちの営みは、そうですね、
ミステリー小説にたとえるといいかもしれない。

殺人犯はアンソニーだ、と言う人もいれば、ニックが犯人だ、
いや、イワンだと、意見はてんでんばらばらです。
現実の事件なら、いずれ警察が解決してくれるでしょう。
もちろん、警察も謎がとけなくて事件は迷宮入りということもある。
それでも謎にはかならず答えがあるのです。
だから、問いに答えるのがむずかしくても、問いには一つの、
そう、たった一つの正しい答えがあると考えることはできる。
死後に人はなんらかの形で存在するとか、いや、そんなことはない、とかね。

ところで、古来からの多くの謎は科学が解いてきました。
昔は、月の裏側がどうなっているかは大きな謎でした。
これは議論したぁらといって解決できる問題ではなかった。
答えはそれぞれのファンタジーにゆだねられていた。
けれどもこんにち、わたしたちは月の裏側のありさまを知っています。
わたしたちはもう、月に兎が住んでいるとか、
月はチーズでできているとか、信じることはできません。

今から二千年以上も前の古代ギリシアの哲学者は、
人間が「なんかへんだなあ」と思ったのが哲学の始まりだ、と考えました。
人が生きているというのはなんておかしなことだろう、と思ったところから、
哲学の問いが生まれた、というのです。
それは手品に似ています。
わたしたちは手品を見て、どうしてそんなことになるのか、さっぱりわけがわからない。


それであとから、どんなからくりであの手品師は二枚の白い絹のスカーフを
生きた兎に変えてしまったのだろう、と首をひねります。
多くの人びとにとって、世界はちょうど、手品師が今の今まで空っぽだった
シルクハットからふいに取り出した兎のように、まるでわけがわからない。
兎についてなら、手品師がわたしたちの目をだましているのだ、ということははっきりしています。
でも世界となると、話はちょっとちがってくる。

わたしたちは、世界はまやかしなんかではないと知っている。
なにしろ、わたしたちはこの大地を走りまわっているのだし、
わたしたちが世界の一部だからです。
つまり、わたしたちがシルクハットから取り出された白兎だというわけです。
白兎との違いはただ一つ、
兎は自分が手品に一役買っているとは知らない、ということだけです。
わたしたちはちがう。
わたしたちは、自分たちがなにか謎めいたことがらに参加していると知っていて、
すべてはどんな仕組みになっているのかつきとめたいと思うのです。

追伸 白兎は全宇宙になぞらえたほうがいいかもしれない。
わたしたち、ここにいるわたしたちは、兎の毛の奥深くでうごめく蚤です。
けれども哲学者たちは、大いなる手品師の全貌をまのあたりにしようと、
細い毛をつたって這いあがろうとしてきたのでした。

ちょっと面食らったかな?ニイナ。この続きはまた今度。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
ニイナはすっかりボーッとしてしまった。
そうよ、面食らっているわ!こんなに息をつめて何かを読んだことは、これまで一度もなかった。
この手紙をくれたのはだれ?
いったいだれなの?
ルーシー・ハドソンにバースデイ・カードを送ったのと同じ人、というのはありえない。

なぜなら、カードには切手とスタンプがちゃんとあったもの。
でもこの茶封筒は、二通の白い封筒と同じように、
郵便局を通さずに直に郵便箱に入れられていた。
ニイナは時計を見た。
まだ三時十五分前。
母が仕事から帰ってくるのは二時間も先だ。

ニイナはもう一度、郵便箱に走っていった。
もっと入っていたりして?
またニイナ宛ての茶封筒が見つかった。
ニイナは辺りを見渡した。
だれもいない。
森の入り口まで走っていって、道の真ん中であちこちをうかがった。
けれども、人っ子一人見つからない。

ふいに森の奥で、小枝がポキッと折れる音がしたように思った。
でも気のせいかもしれないし、見に行っても仕方がない。
だれかが立ち去ろうとしていたとしても、追いすがるのはもう無理だった。
ニイナは玄関をあけて、通学バッグと母にきた手紙を床に置いた。
そして自分の部屋に行って、
綺麗な石がいっぱい入った大きなクッキーの缶から石を床にぶちまけると、
二通の大きな封筒を入れた。
それから缶を抱えて、もう一度、庭に走っていった。

その前にレオに餌をやった。
「レオ、ごはんよ、レオ!」
ふたたびほら穴に腰をおろしたニイナは、封を開いて、タイプ書きの手紙を読みはじめた。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
おかしなもの

また会いましたね。
たぶんもうわかったと思うけど、このささやかな哲学講座はちょうどよい分量ずつ届きます。
ついでにもう少し案内をしておきます。
いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だとは、もう言いましたっけ?
まだだったら、ここで言っておくね。
いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だ。

赤ん坊はみんな、この才能をもっています。
これははっきりしている。
生まれてほんの数ヶ月で、赤ん坊はま新しい現実へと押し出されます。
けれども、大きくなるにつれてこの才能はだんだんとなくなっていくらしい。
どうしてそうなるのかな?
ニイナ・ミヒロ・オーセンは、この問いにに答えられるかな?

まあ、いいでしょう。
とにかく、もしも小さな赤ん坊に話ができたら、きっと、
なんておかしな世界にきてしまったのだろう、と言うんじゃないかな。
なぜならわたしたちも知っているように、話はできなくても、赤ん坊は辺りを指さして、
部屋にあるのもに興味津々でさわるものね。
言葉が出てくると、犬を見たりするたびに立ち止まり、言います。
「ワン、ワン!」
赤ん坊がベビーカーの中でピョンピョン飛びはねて腕をふりまわすのを見たことがあるでしょう。
「ワンワン、ワンワン!」とね。

年上のわたしたちは赤ん坊のはしゃぎようを、ちょっぴり大袈裟と感じます。
わたしたちはわけ知り顔で、
「そう、ワンワンだね」と言います。
それから
「さあ、もうおりこうさんにお座りしなさい」なんて。
わたしたちはそんなに嬉しくないのです。
犬ならもうとっくに見たことがあるから。

この突拍子もない反応は、
子どもが犬とすれちがってもう嬉しくて我を忘れるなんてことにならなくなるまで、
おそらく数百回は繰り返されます。
象でもカバでも同じことです。
そして、子どもがちゃんと言葉を覚えるずっと前に、
あるいは哲学的に考えることを知るずっと前に、世界は慣れっこのものになってしまう。

もしもニイナがわたしの言うことにキョトンとしたとしたら、残念です。
まさかニイナは、世界をわかりきったものだと思っている人の仲間ではないよね?
これはわたしにとって切実な問題なのです。
親愛なるニイナ。
だから念のため、哲学講座の本題に入る前に、
想像のなかで二つ、体験してみましょう。

さあ、想像してみて。
ニイナは森を散歩しています。
突然、行く手に小さな宇宙船を見つけます。
宇宙船の上には一人の小さな火星人がよじ登って、ニイナをじっと見下ろしている・・・・・。
さあ、そんな時、ニイナなら何を考えるだろう?
まあ、それはどうでもいいとして。
でも、自分を異星人みたいに感じたことはない?

ほかの惑星の生物に出くわすなんて、そんなにありそうなことではない。
ほかの惑星に生命が存在するかどうかもわからないし。
けれども、ニイナがニイナ自身に出くわす、ということはあるかもしれない。
ある晴れた日、ニイナがニイナ自身を全く新しく体験してハッとする、
ということは、ちょうど森を散歩している時なんかにね。
わたしっておかしなもの、とニイナは考える。

わたしは謎めいた生き物、と・・・・・・。
ニイナは、まるで何年も続いたいばら姫の眠りから目覚めたように感じる。
わたしはだれ?
ニイナはたずねる。
ニイナは、自分が宇宙のある惑星お上をゴソゴソ動き回っている、ということは知っている。
でも宇宙とはなんだろう?なんであるのだろう?

もしもニイナがこんな自分に気がついたなら、ニイナは自分自身をさっきの火星人と
同じくらい謎めいたものとして発見したことになるのです。
いえ、宇宙からやってきたものを見てびっくりするほうが、まだましなくらいだ。
ニイナはニイナ自身をとびきりおかしなものとして、
とっくりと深く感じるのです。

わたしの話についてきている?ニイナ。
もう一つ想像の体験をしますよ。

つづく