ある朝、パパとママと小さなトムが、そう、二つか三つの男の子です。
キッチンで朝食を食べている。
ママが立ちあがり、流し台のほうに行く、
するとそう、突然パパが天井近くまでフワッと浮かびあがる。
トムはなんて言ったと思う?
たぶんパパを指さして、
「パパが飛んでる!」と言うでしょう。

もちろんトムはびっくりだけど、どうせトムはいつもびっくりしています。
パパはいろいろおかしなことをするから、ちょっとばかり朝食のテーブルの上を飛ぶなんて、
トムの目には別にたいしたことには映らない。
パパは毎日へんてこな機械で髭をそるし、しょっちゅう屋根に登って、
テレビのアンテナをあちこちひん曲げる。
かと思うと、自転車に首をつっこんで、鴉みたいにまっ黒になって出てくる。

さて、こんどはママの番です。
ママはトムの声に、何気なくふり返る。
ニイナは、キッチンのテーブルの上を飛びまわるパパを見て、ママがどう反応すると思う?
ママの手からジャムのガラスビンが落ち、ママはびっくり仰天してけたたましく呼びます。
パパが椅子に戻ったあと、ひょっとしたらママは医者に診てもらわなければならないかもしれない。
(パパがテーブルマナーを守らなかったばっかりに、とんだ大騒ぎだ。)

どうしてトムとママの反応はこんなに違うのかな?
ニイナはどう思う?
これは「習慣」の問題です。(この言葉、メモして!)
ママは、人間は飛べないということをとっくに学んでいる。
トムは学んでいない。
トムはまだ、この世界では何がありで何がありではないか、よく知らない。

でもニイナ、この世界そのものはどうなっているんだったっけ?
こんな世界はありかな?
世界もパパのように宇宙空間にフワフワと漂っているんじゃなかったっけ・・・・・・。
悲しいことに、わたしたちは大人になるにつれ、重力の法則に慣れっこになるだけではない。
世界そのものに慣れっこになってしますのです。

わたしたちは子どものうちに、この世界に驚く能力を失ってしますらしい。
それによって、わたしたちは大切な何かを失う。
哲学者たちは、その何かをもう一度目覚めさせようとします。
なぜなら、わたしたちの心のどこかで何かが、生きていることは大きな謎だ、
と語りかけているからです。
わたしたちは、生きることについて考えるのを学ぶずっと以前から、
この語りかけを聞いているのです。

もっとはっきり言いましょう。
人はだれでも哲学の問いに向きあいはするけれど、
だからといってすべての人が哲学者になるのではありません。
ほとんどの人びとは、さまざまな理由から日常にとらわれて、
生きることへの驚きを深いところに押しこんでしまう。
(人びとは兎の毛の奥深くにもぐりこみ、そこの居心地がよくなって、
人生の残りを毛皮の中で過ごすのです。)

子どもにとって世界は、そして世界にある全てのものは驚きを呼びさます「新しいもの」です。
大人はそんな見方はしない。
たいていの大人は、世界を当たり前のこちとして受けいれている。
だからこそ、哲学者たちは大変珍しい例外なのです。
哲学者には、世界にすっかり慣れっこになるなど、どうしてもできない。
男でも女でも、哲学者にとって世界はいつまでたってもわけがわからない。

そう、謎だらけで秘密めいている。
哲学者と幼い子どもは、大切なところで似た者同士なわけです。
哲学者は、一生幼い子どものままでいる例外人間と言えるでしょう。
さあ、親愛なるニイナ、あなたは今、選ばなければならない。
ニイナは、まだ世界に「慣れっこ」になっていない子どもかな?
それとも、慣れっこになど絶対にならないと誓って言える哲学者かな?

もしもニイナがあっさりと首を横にふって、自分は子どもだとも、
また哲学者だとも思っていないと言うなら、それはニイナが、
もう世界に驚かされることもないほどに、この世界に慣れっこになっているのです。
だとしたら、危険はもうすぐそこまで迫っている。
だからこそ、この哲学講座が届いたのです。
わたしは、ほかでもないニイナが、投げやりで無関心な人びとの仲間であってほしくない。

はつらつと生きる人であってほしいのです。
この講座はいっさい無料です。
だから、受けないことにしても払い戻しはありません。
もしもある日やめたくなっても、ちっともかまわない。
郵便箱にわたし宛ての通知を入れるだけでいい。
生きた蛙とか、まあ、なんでもいいでしょう、あまり郵便屋さんを驚かしたくないから、
何か緑色のものを入れておいてください。

短いまとめ。
白兎は空っぽのシルクハットから引っぱり出されます。
とても大きな兎なので、この手品の仕込みには数億年かかります。
か細い毛の先っぽに、全ての人の子が生まれるでしょう。
だから全ての人の子は、このありえない手品に驚きあきれるでしょう。
けれども、人の子たちは大きくなると、どんどん兎の毛の根元のほうへともぐりこむ。

そしてそこにうずくまる。
そこはあんまり居心地がいいもので、
毛皮のか細い毛をもう一度上までよじ登ろうなどという気は起こさない。
哲学者たちだけが、言葉と存在のいちばんはしっこまでの危険な旅に果敢に乗り出します。
なかには途中で行方不明になってしまう人びともいるけれど、
兎の毛にしっかりとしがみついて、
ずっと下のほうで白い毛にヌクヌクとうずくまって
お腹いっぱい食べたり飲んだりしている人びとに呼びかける哲学者たちもいる。

「みなさーん、わたしたちは空っぽの空間に漂っていますよー!」
けれども、毛の根っこにいるだれ一人、哲学者たちのそんな叫び声には耳をかさない。
「やれやれ、うるさい連中だなあ」と人びとは言います。
そして、さっきの話の続きをします。
バター取ってくれる?
今日の株式市況はどうかな?
このトマトいくらした?
ねえねえ、聞いた?
レディ・ディがまた妊娠したらしいってよ!

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夕方、母が帰ってきた時、ニイナは呆然としていた。
謎の哲学者の手紙を入れた缶はしっかりとほら穴に隠してあった。
ニイナは宿題に向かおうとしたが、さっき読んだことで頭がいっぱいだった。
今まで、こんなにどっさり考えたことなんてなかった!
わたしはもう子どもではない。
でも、まだ一人前の大人でもない。

ニイナは、自分がもう、黒いシルクハットから引き出された
世界という兎のフカフカの毛の奥深くにもぐりこもうとしていた、ということがよくわかった。
けれども今、あの哲学者がわたしを連れ戻してくれた。
彼-------それとも彼女?-------は、
わたしの首根っこをしっかりとつかんで、
子どものわたしが遊んでいた毛の先のほうにもう一度連れ出してくれた。

そしてわたしはか細い毛の先っぽで、
世界をもう一度、まるで初めて見るように見ている。
あの哲学者はわたしを救ってくれた。
ニイナは母をリビングルームに連れてきて、無理矢理ソファに座らせた。
「ママ、生きているっておかしなことだと思わない?」
母はびっくりしたあまり、とっさに答えが思いつかなかった。

いつもなら、母が帰ってくると、ニイナは宿題に向かっていた。
「そうねえ、たしかに時どきは思うわね」
「時どき?あのさあ、だいたい世界があるって、おかしなことだと思わない?」
「ちょっとニイナ、あなたなんのことを言ってるの?」
「ママに聞いてるの。ママは、世界なんてまるでどうってことないと思う?」
「そうね、そうだわね。だいたいはね」

ニイナは、あの哲学者は正しい、と思った。
大人は世界を当たり前だと思っている。
大人はありきたりの生活といういばら姫の眠りに落ちたきり、ぐっすりと眠りこけている。
「あーあ!ママったら、もう世界がママを驚かすこともないくらい、
この世界に慣れっこになってるのね」
「悪いけど、何を言ってるのかさっぱりわからない」

「この世界に慣れっこになっちゃってるのねって、言ったの。
ほかの言い方だと、どうかしてるってこと」
「そんな口のきき方をするもんじゃありません、ニイナ」
「じゃあ、もっとほかの言い方をする。ママは、
たった今黒いシルクハットから引っぱり出された世界っていう兎の毛の奥でヌクヌクとしているの。
そしてもうすぐじゃがいもを火にかけようとしているの。
そのあと新聞を読んで、三十分こっくりこっくりして、
それからテレビのニュースを見るの」

母の顔を心配そうな表情がサッとかすめた。
母は本当にキッチンに行って、じゃがいもを火にかけた。
そしてすぐにリビングに戻ってくると、今度は母がニイナをソファに座らせた。
「ちょっとお話があるの」母は切り出した。
その声からニイナは、なにか真面目な話なのだ、とピンときた。
「あなた、どっかにドラッグを隠しているんじゃない?」
ニイナはあ思わず笑ってしまった。
でもこんな質問が飛び出すのも無理はないとも思った。
「おかしなママ!そんなものやったら、もっとドン臭くなっちゃうじゃない!」
この日はもう、ドラッグのことも白兎のことも話題にならなかった。


第3話----神話へつづく