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経済と社会とか

金子さんの本からの引用、これが最後になるはず!
ちょっと長いですが。

ボランティアとは、なんらかの困難を抱えている人を前にしたとき、その人の問題を自分から切り離すのではなく、その人の問題は、ある意味で自分の問題でもあるという結びつきを見て取るという事態へのかかわり方をしたうえで、その状況の改善に向けてネットワークを作ってゆくネットワーカーである。p124-125

ここからしばらくはは、この本のp183-で紹介されている、経済学者カール・ポランニーの論文『経済の文明史』玉井野・平野訳、日本経済新聞社からの引用です///
われわれが今新しく直面している問題は、人間生活をどう組織するかということである。競争的資本主義の仕組みが衰えていくにつれ、その背後から産業文明の本性が不気味に顔を覗かせている。そこにはすべてを無力化する分業、生活の標準化、生物に対する機械の優位、自発性に対する組織の優位がある。
市場メカニズムが社会全体の生命にとって決定的な要因となった。当然、新しく登場した人間集団は、以前には想像もつかなかったほどの「経済的」な社会になった。「経済的動機」がその世界の最高位に君臨し、個人は、絶対的な力をもった市場に踏みにじられるという苦しみを受けながら、その「経済的動機」にもとづいて行動するように仕向けられた。
この新しい「経済的動機」の世界は、一つの誤謬のうえに築かれていた.飢餓にしても利得にしても、それは本来、愛や憎しみや誇りや偏見と同じく、経済的なものではない。人間の動機には本来経済的な動機というものはない。人が宗教的、美的、あるいは性的な経験をするのと同様の意味での、独自な経済的経験などはないのである。
人間は経済的存在ではなく、社会的存在である、といったアリストテレスは正しかった。人間の目的は、物質的財産の獲得という形で、個人的利益を守ることにあるのではなく、むしろ社会的名誉、社会的地位、社会的財産を確保することにあるのであろう。財産は何よりもまず、このような目的を得る手段として評価されるのである。人間の持つ誘因は「混合的」な性格ものもであって、これには社会的承認を得ようと努力が伴うものである。——生産の努力はこの努力に付随するものに過ぎないのである。つまり、人間の経済は減速として社会関係のなかに埋没しているのである。こうした社会から、逆に経済システムのなかに埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であたのである。
人間とその自然環境とのあいだの一連の相互作用には、通例、さまざまな意味が含まれており、経済的な依存関係はそのうちの一つに過ぎない・・・より生々しく、より劇的で、より感情的な別の依存関係が作動しているために、経済的な行動が意味のある全体をなすことができない、ということもありうるのである。
///ここまで。

アリストテレスの見た「経済」は、自分から進んで負担を引き受けること、贈られたら返すこと、そして個々人の利益ではなく、共同体全体の存続を基準として、それぞれの成員の共同体における不平等な地位に基づくしかるべき——公正な——配分がなされるものであるというわけだ。

もういっちょ

スミスから約二百年、マルクスから約百年たった現代において、価値の多様化が盛んに叫ばれていはいるものの、経済性が生活のほとんどの分野を覆い尽くすという状態は、ますます顕著になっている。非経済的価値は、社会の片隅にかろうじて存在するだけであり、人々のすることは、ほとんどの場合、結局は「お金に換算して」その価値を計られる。

経済システムに「のらない」もの、つまり、十分な収益につながらないものは、現代社会において—特に日本社会でその傾向が強いようだがーまともな扱いを受けない。マイナーなものとして無視されるか、軽んじられることが多い。ある種の評価を受ける場合でも、たいていは「小さくて、清らかなもの」として、おとなしくてよわよわしいこと、つまり現行システムや既存の価値観に脅威を与えないことに対しての「ごほうび」をもらっているにすぎない。

(中略)ボランティアも、経済システムにのらないものと思われているもののひとつである。傍観者の目には、ボランティアは、マイナーでダサいものか、「奇特な人」のする例外的なことか、「偽善」か、とにかく、「わかりにくい」ものと移っているのかもしれない。

ボランティアが「わかりにくい」のは、ボランティアの「報酬」が、多くの場合、簡単にお金に換算できないものだからである。つまり、それはボランティアが、多様な価値を見いだしているからである。

ボランティアの発見する価値は、経済性という価値観の平面には収まりきらないものである。しかし、そのことは、ボランティアを経済性から隔離しなければならない、ということではない。むしろ。その逆である。ボランティアは特殊なものではなく、社会生活や人間本来の行動の一部であるのだから、経済システムとも「きちんとした」関係を結びつつ、共存することができるはずだし、そうすることが必要である。

p157-p158より

つづき;p125-p126

ボランティアは、まず、自分から動くことで、自分をバルネラブルにする。しかし、まず、自分から動くことが、「ふさわしい場所」を空けておくことにもなるのである。つまり、バルネラブルであるということは、弱さ、攻撃されやすさ、傷つきやすさであるとともに、相手から力をもらうための「窓」を開けるための秘密の鍵でもあるのだ。バルネラビリティは、弱さの強さであり、それゆえの不思議な魅力があるのだ。(中略)情報は、そのもの自体に、自発性パラドックスを内在させている、ということができる。つまり、動的情報を発生するためには、自らの情報を開示しなければならないが、自分から情報を出してしまうことによって、批判を受けやすく、傷つきやすくなるというパラドックスを、情報は本質的に抱えている。換言すれば、情報はそれ自体バルネラブルであるということだ。
つまり、ネットワーカーとしてのボランティアとは、情報に織り込まれている自発性を頼りにして、自ら情報を動かし、それとともに、自分の行動の翼を広げる人であると言えよう。そして、ネットワーカーとしてのボランティアのバルネラビリティは、情報自体のバルネラビリティに由来するものなのである。
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