メリークリスマス
Have yourself a merry little Christmas,
Let your heart be light
From now on,
our troubles will be out of sight
Have yourself a merry little Christmas,
Make the Yule-tide gay,
From now on,
our troubles will be miles away.
Here we are as in olden days,
Happy golden days of yore.
Faithful friends who are dear to us
Gather near to us once more.
Through the years
We all will be together,
If the Fates allow
Hang a shining star upon the highest bough.
And have yourself A merry little Christmas now.
Let your heart be light
From now on,
our troubles will be out of sight
Have yourself a merry little Christmas,
Make the Yule-tide gay,
From now on,
our troubles will be miles away.
Here we are as in olden days,
Happy golden days of yore.
Faithful friends who are dear to us
Gather near to us once more.
Through the years
We all will be together,
If the Fates allow
Hang a shining star upon the highest bough.
And have yourself A merry little Christmas now.
予定若干変更報告
都市開発で渋谷を扱って思ったのですが、
渋谷って広いですね。
ということで、最終発表は少し的を絞っていこうと思います。
基本的に「街は舞台☆」路線は変えません。
「舞台」として渋谷駅周辺を見たときに出てくる「舞台に相応しくない点」などを挙げて、
それに対してどんなことができるかな???という提案と、
今ある活動たちとその成果や未来予想図なんかをまとめたいと思います。
ラインとしては、せっかくこの間道玄坂やりましたが、
今回は渋谷駅から公園通りを抜けて代々木公園までで考えるつもりです。
たぶんまた画像の多いパワポ×レポートになると思います。
みなさん何かアイデアがあったらぜひ教えてくださいね。
でわでわ、良い週末をお過ごしください。
終わりました~
今日私の話を聴いてくれた人、どうもありがとう。宇野さんお疲れ様でした。
たくさんの人の前で話すのはやっぱり苦手です。苦手なのはわかってたから、しゃべること全部メモに書いていったのに、それすらまともに読めませんでした。読み残した箇所いっぱいあります。もったいないので下に貼っておきます。良かったら読んでね。メモなので、文章おかしいかもしれないですけれど、気にしないで下さいね。
プレゼンの後の、みんなからいただいた意見は予想外
でとても面白かったです。もうちょっと細かい現実的なことを期待していた部分はあるのですが、面白かったし、自分じゃ思いつかない視点だったので聞けてよかったです。あと、そろそろ最終レポートの準備もしたいので、他に後から思いついたこととかあれば、いつでもメールなりなんなりで意見いただけると嬉しいです。
ではまた!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
渋谷区の土地
武蔵野大地の縁にあり、渋谷川に沿った谷。すり鉢状の地形の谷底に渋谷駅が位置する。
坂の険しさを実感するには、マークシティを例に考えるとわかりやすい。駅側からの入り口は建物1階部分であるが、道玄坂上からの入り口は、建物4階部に相当する。
肝心の渋谷川は国道246との交点より上流は暗渠化され、下流部分は水の流れを見ることはかろうじてできるものの、直立護岸のどぶ流れと化したこの川が、春の小川のモデルになった川とはどうにも想像ができない。水源は武蔵野台地、新宿御苑の池との説もありますが、今は神田川から水を取っているとも言われています。
渋谷区の成立
昭和7年10月1日:渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併して渋谷区が成立。他の79町村とともに、大東京35区の一環となる。
昭和30年頃:高層ビルが続々と建設され、商業に加えてオフィス街も生まれ、副都心化が進みました。
昭和39年の東京オリンピック時:道路の新設や拡張が相次ぎ、
昭和40年:渋谷区総合庁舎や渋谷公会堂が完成。また、地方自治法の改正により、福祉事務所などの事務が都から移行されました。
現在渋谷駅周辺は、ファッション関係の店舗や百貨店、居酒屋やバーなどが次々に作られ、多くの人が集まる若者の街としてのにぎわいを見せています。
人口:196,999人、117,145世帯、外国人11,331人(2007年10月31日現在)一世帯あたりの人数は1,7人。
面積:15,11㎢(縦横約4㎞)東京ドーム33個分。目黒区、中野区とほぼ同じ広さ。
交通:JR山手線、埼京線、湘南新宿ライン、東急東横線、田園都市線、地下鉄半蔵門線、銀座線、京王井の頭線、その他都営、東急系路線バス多数
渋谷駅
大正時代の渋谷駅。大正9年に、今現在渋谷駅がある場所にできました。当時としてはモダンな木造建築ですが、大震災でつぶれてしまいます。
昭和10年頃の渋谷駅。この駅舎は昭和5年に建てられ、昭和42年に現在の駅舎になるまで37年間も使用されていました。
<新版大東京案内(戦前の考古学者、今和次郎)より>
震災後急に発展した場所だけに、昼間はかなり新開地気分濃厚、悪くいえば殺風景でごみごみしている。
駅前は同時に市電の終点、玉川電車の発点になっているので朝夕のラッシュアワーの混乱は言語に絶する。しかし銀座辺りと違って、ウルトラ・モダンの青年やフラッパアなどはあまり漫歩していない。
改札を出ると同時に、無効に軒をつらねた店々の看板、「甘栗、明治製菓、うなぎ食堂、江戸趣味すし立食堂、実質本位味は天下一品、富士グリル、塩瀬」そのさま、いかにも雑然として、今なお街としての完成の過渡期にあることを思わせる。
東急の街としてのイメージが強い渋谷。でも実際は西武との競争によって発展してきました。
昭和に入ってから戦争を挟んだ戦前戦後それぞれ20年間で、渋谷は大きく発展しました。
昭和20年に東京大空襲を受けるまでに、
昭和2年:東横線
昭和8年:井の頭線
昭和13年:地下鉄線
が開通し、さらに東急東横百貨店が昭和9年、玉川線のターミナルになった玉電ビルが昭和13年に完成し、渋谷駅を中心とする現在の街の作りの原型ができました。
玉川電鉄
マークシティは玉電の渋谷駅から道玄坂までの線路跡(玉電廃止後は東急バス専用道路となっていた)に建てられたもの。
案内図を見ればわかるように、平面的に細長い建物である。 玉電の渋谷駅は今の東急百貨店東横店西館の2階にあったが、そこから京王井の頭線乗り換え口、マークシティ4階を経て、道玄坂上へと通じる細長い空間は、実は電車が走っていた急坂の線路だった。
東急の軌道線であった「玉川線」の愛称で、玉川通りの上を、渋谷から二子玉川園まで走っていた電車です。昭和13年に東急合併されるあでは、玉川電気鉄道会社というのがあったんだそうです。明治40年の開通以来、砂利の輸送にも使用され、「砂利電」とも呼ばれていたとか。また、中目黒方面などにも支線を延ばしましたが、それらは後に都電の一部になりました。
戦後の復興期の輸送に活躍し、郊外への移住に伴う沿線の宅地化によって増えた通勤通学客や行楽客にも対応し、その存在意義を高めてきた玉電でしたが、昭和30年代後半になると、高度経済成長とともに、我が国も本格的な車社会に入ってきました。そして、東京オリンピックを英気に、東京都内の交通体系の見直しが進められ、地下鉄が増え、都内の路面電車は次々に姿を消していきました。
玉電は、地下鉄銀座線を延長して高架を多用した新線を建設しようとする計画もあったのですが、沿線住民の反対などによって、実現には至らず、昭和44年5月10日、玉電はとうとう60年余りの歴史に幕を下ろしました。
ただ、大正14年に開通した三軒茶屋~下高井戸の支線は、現在の世田谷線のもとになっています。そういわれてみると、2両編成のかわいらしい世田谷線の意味も理解できる気がします。
看板建築
この一角だけは昭和初期の雰囲気が残っています。看板建築と称されるもので、大正12年(1923)の関東大震災以後に流行した商店建築のスタイルです。それまで東京の商店は江戸時代からの土蔵作りの店や、正面軒下に化粧桁をたくさんだした出桁づくりの店が多く、その建物に看板を取り付けるのが江戸時代の常識でした。けれども、震災後は時代も変わり、より目立ちたいという店川の意思から、建築と看板とを一緒に作る一挙両得の考えでこのようなスタイルが流行したと考えられています。私が大学2年生の夏まではたしかにここにお店もありましたが、秋頃にすべて閉店してしまいました。今はネットを張られて立ち入りが規制されながらも道玄坂に残っていますが、近い将来に取り壊されてしまうのでしょう。
百軒店
関東大震災後、渋谷は下町からどっと押し寄せた業者によって目覚ましい発展を遂げます。中でも特筆すべきは百軒店。第二の浅草を目指したというこの地域は、宮益坂からわざわざ千代田稲荷を移動させてしまったほどの大規模な商店街開発計画。さぁ、百軒店ってどこだかわかりますか?戦前、第二の浅草になろうとがんばった街は、今、ホテル・クラブ街になっています。道玄坂の上の方、円山町と呼ばれる地区です。関東大震災後の一時期は浅草をもしのぐ繁華街として栄えましたが、道玄坂が復興するにしたがって寂れてきます。
大正12年9月1日、マグニチュード7,9の大震災が東京を襲いました。これが世にいう関東大震災です。現在の渋谷区行きの被害は東京市中心部に比べれば軽微でしたが、この地震により十万人余りの人々が命を落としています。この震災の復興に際し、コクド(西武系列)の前身である箱根土地は、購入した中川伯爵部を分譲し、現在でいうところの百軒店を都市空間に再現しようとして計画したのが百軒店なのです。百軒店は、被災した下町の有名店を誘致するとともに、千代田稲荷を商売繁盛の神としてその中心に据えました。また繁楽座という劇場なども建て、近代的な商業空間として成立したのです。その繁栄ぶりは、当時宇田川町に住んでいた竹下夢二をして、「百軒店で軒別に見歩くのはおっくうになった」と言わしめるほどでした。「百軒店」は、ノスタルジックな雰囲気を懐かしむ人々に親しまれ、現在に至っております。
道玄坂
大正3年、道玄坂から宮益坂や青山の丘がのぞめた。道路はまだ舗装されておらず、雨が降るたびに馬車の車輪跡を水が流れて、坂の下を水浸しにした。坂の下には憲兵分隊の建物や、シャレた洋風の郵便局などもあった。
ハチ公
駅前の銅像は、昭和9年に初めて建てられました。そのとき、ハチ公は存命でしたが、翌年フィラリアで亡くなります。ハチ公の剥製は国立科学博物館で展示されています。
初代銅像は戦時中の金属資源不足により供出され、戦後1948年に現在のものが再建され、当時は広場の中央に座って北側(交差点側)を向いていましたが、平成に入って駅前広場が拡張された際に、現在の位置に移動されました。
たくさんの人の前で話すのはやっぱり苦手です。苦手なのはわかってたから、しゃべること全部メモに書いていったのに、それすらまともに読めませんでした。読み残した箇所いっぱいあります。もったいないので下に貼っておきます。良かったら読んでね。メモなので、文章おかしいかもしれないですけれど、気にしないで下さいね。
プレゼンの後の、みんなからいただいた意見は予想外
でとても面白かったです。もうちょっと細かい現実的なことを期待していた部分はあるのですが、面白かったし、自分じゃ思いつかない視点だったので聞けてよかったです。あと、そろそろ最終レポートの準備もしたいので、他に後から思いついたこととかあれば、いつでもメールなりなんなりで意見いただけると嬉しいです。ではまた!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
渋谷区の土地
武蔵野大地の縁にあり、渋谷川に沿った谷。すり鉢状の地形の谷底に渋谷駅が位置する。
坂の険しさを実感するには、マークシティを例に考えるとわかりやすい。駅側からの入り口は建物1階部分であるが、道玄坂上からの入り口は、建物4階部に相当する。
肝心の渋谷川は国道246との交点より上流は暗渠化され、下流部分は水の流れを見ることはかろうじてできるものの、直立護岸のどぶ流れと化したこの川が、春の小川のモデルになった川とはどうにも想像ができない。水源は武蔵野台地、新宿御苑の池との説もありますが、今は神田川から水を取っているとも言われています。
渋谷区の成立
昭和7年10月1日:渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併して渋谷区が成立。他の79町村とともに、大東京35区の一環となる。
昭和30年頃:高層ビルが続々と建設され、商業に加えてオフィス街も生まれ、副都心化が進みました。
昭和39年の東京オリンピック時:道路の新設や拡張が相次ぎ、
昭和40年:渋谷区総合庁舎や渋谷公会堂が完成。また、地方自治法の改正により、福祉事務所などの事務が都から移行されました。
現在渋谷駅周辺は、ファッション関係の店舗や百貨店、居酒屋やバーなどが次々に作られ、多くの人が集まる若者の街としてのにぎわいを見せています。
人口:196,999人、117,145世帯、外国人11,331人(2007年10月31日現在)一世帯あたりの人数は1,7人。
面積:15,11㎢(縦横約4㎞)東京ドーム33個分。目黒区、中野区とほぼ同じ広さ。
交通:JR山手線、埼京線、湘南新宿ライン、東急東横線、田園都市線、地下鉄半蔵門線、銀座線、京王井の頭線、その他都営、東急系路線バス多数
渋谷駅
大正時代の渋谷駅。大正9年に、今現在渋谷駅がある場所にできました。当時としてはモダンな木造建築ですが、大震災でつぶれてしまいます。
昭和10年頃の渋谷駅。この駅舎は昭和5年に建てられ、昭和42年に現在の駅舎になるまで37年間も使用されていました。
<新版大東京案内(戦前の考古学者、今和次郎)より>
震災後急に発展した場所だけに、昼間はかなり新開地気分濃厚、悪くいえば殺風景でごみごみしている。
駅前は同時に市電の終点、玉川電車の発点になっているので朝夕のラッシュアワーの混乱は言語に絶する。しかし銀座辺りと違って、ウルトラ・モダンの青年やフラッパアなどはあまり漫歩していない。
改札を出ると同時に、無効に軒をつらねた店々の看板、「甘栗、明治製菓、うなぎ食堂、江戸趣味すし立食堂、実質本位味は天下一品、富士グリル、塩瀬」そのさま、いかにも雑然として、今なお街としての完成の過渡期にあることを思わせる。
東急の街としてのイメージが強い渋谷。でも実際は西武との競争によって発展してきました。
昭和に入ってから戦争を挟んだ戦前戦後それぞれ20年間で、渋谷は大きく発展しました。
昭和20年に東京大空襲を受けるまでに、
昭和2年:東横線
昭和8年:井の頭線
昭和13年:地下鉄線
が開通し、さらに東急東横百貨店が昭和9年、玉川線のターミナルになった玉電ビルが昭和13年に完成し、渋谷駅を中心とする現在の街の作りの原型ができました。
玉川電鉄
マークシティは玉電の渋谷駅から道玄坂までの線路跡(玉電廃止後は東急バス専用道路となっていた)に建てられたもの。
案内図を見ればわかるように、平面的に細長い建物である。 玉電の渋谷駅は今の東急百貨店東横店西館の2階にあったが、そこから京王井の頭線乗り換え口、マークシティ4階を経て、道玄坂上へと通じる細長い空間は、実は電車が走っていた急坂の線路だった。
東急の軌道線であった「玉川線」の愛称で、玉川通りの上を、渋谷から二子玉川園まで走っていた電車です。昭和13年に東急合併されるあでは、玉川電気鉄道会社というのがあったんだそうです。明治40年の開通以来、砂利の輸送にも使用され、「砂利電」とも呼ばれていたとか。また、中目黒方面などにも支線を延ばしましたが、それらは後に都電の一部になりました。
戦後の復興期の輸送に活躍し、郊外への移住に伴う沿線の宅地化によって増えた通勤通学客や行楽客にも対応し、その存在意義を高めてきた玉電でしたが、昭和30年代後半になると、高度経済成長とともに、我が国も本格的な車社会に入ってきました。そして、東京オリンピックを英気に、東京都内の交通体系の見直しが進められ、地下鉄が増え、都内の路面電車は次々に姿を消していきました。
玉電は、地下鉄銀座線を延長して高架を多用した新線を建設しようとする計画もあったのですが、沿線住民の反対などによって、実現には至らず、昭和44年5月10日、玉電はとうとう60年余りの歴史に幕を下ろしました。
ただ、大正14年に開通した三軒茶屋~下高井戸の支線は、現在の世田谷線のもとになっています。そういわれてみると、2両編成のかわいらしい世田谷線の意味も理解できる気がします。
看板建築
この一角だけは昭和初期の雰囲気が残っています。看板建築と称されるもので、大正12年(1923)の関東大震災以後に流行した商店建築のスタイルです。それまで東京の商店は江戸時代からの土蔵作りの店や、正面軒下に化粧桁をたくさんだした出桁づくりの店が多く、その建物に看板を取り付けるのが江戸時代の常識でした。けれども、震災後は時代も変わり、より目立ちたいという店川の意思から、建築と看板とを一緒に作る一挙両得の考えでこのようなスタイルが流行したと考えられています。私が大学2年生の夏まではたしかにここにお店もありましたが、秋頃にすべて閉店してしまいました。今はネットを張られて立ち入りが規制されながらも道玄坂に残っていますが、近い将来に取り壊されてしまうのでしょう。
百軒店
関東大震災後、渋谷は下町からどっと押し寄せた業者によって目覚ましい発展を遂げます。中でも特筆すべきは百軒店。第二の浅草を目指したというこの地域は、宮益坂からわざわざ千代田稲荷を移動させてしまったほどの大規模な商店街開発計画。さぁ、百軒店ってどこだかわかりますか?戦前、第二の浅草になろうとがんばった街は、今、ホテル・クラブ街になっています。道玄坂の上の方、円山町と呼ばれる地区です。関東大震災後の一時期は浅草をもしのぐ繁華街として栄えましたが、道玄坂が復興するにしたがって寂れてきます。
大正12年9月1日、マグニチュード7,9の大震災が東京を襲いました。これが世にいう関東大震災です。現在の渋谷区行きの被害は東京市中心部に比べれば軽微でしたが、この地震により十万人余りの人々が命を落としています。この震災の復興に際し、コクド(西武系列)の前身である箱根土地は、購入した中川伯爵部を分譲し、現在でいうところの百軒店を都市空間に再現しようとして計画したのが百軒店なのです。百軒店は、被災した下町の有名店を誘致するとともに、千代田稲荷を商売繁盛の神としてその中心に据えました。また繁楽座という劇場なども建て、近代的な商業空間として成立したのです。その繁栄ぶりは、当時宇田川町に住んでいた竹下夢二をして、「百軒店で軒別に見歩くのはおっくうになった」と言わしめるほどでした。「百軒店」は、ノスタルジックな雰囲気を懐かしむ人々に親しまれ、現在に至っております。
道玄坂
大正3年、道玄坂から宮益坂や青山の丘がのぞめた。道路はまだ舗装されておらず、雨が降るたびに馬車の車輪跡を水が流れて、坂の下を水浸しにした。坂の下には憲兵分隊の建物や、シャレた洋風の郵便局などもあった。
ハチ公
駅前の銅像は、昭和9年に初めて建てられました。そのとき、ハチ公は存命でしたが、翌年フィラリアで亡くなります。ハチ公の剥製は国立科学博物館で展示されています。
初代銅像は戦時中の金属資源不足により供出され、戦後1948年に現在のものが再建され、当時は広場の中央に座って北側(交差点側)を向いていましたが、平成に入って駅前広場が拡張された際に、現在の位置に移動されました。