こんにちは。

前回の記事(信用と信頼について〜自分と他者を見る目線〜)に引き続いて、今回は「愛」をテーマに取り上げたいと思います。

 

「愛」だなんて唐突に何を言い出すんだ、という印象を受けるかもしれませんが、人間関係の目指すところとして、「愛」というワードは欠かせないものになります。

どうぞ、最後までお付き合いください。

 

※当記事は、主としてアドラー心理学の考え方をベースに記載していますが、内容には筆者の独自の理解・解釈が含まれています。参考文献の引用を付していますが、筆者はアドラー心理学について現時点では独学者であり、学会等で正式に議論されている解釈とは異なる内容を含む可能性があることにご留意ください。

 

○愛のタスク

前回、人が人生において向き合うべき対人関係の課題を「人生のタスク」と呼び、その関係性の深さにおける第一段階、第二段階をそれぞれ「仕事のタスク」「交友のタスク」と定義することを紹介しました。

実は人生のタスクにはさらにもう一つ、もっとも深く密接なものがあり、それこそが

 

「愛のタスク」

 

なのです。

 

愛のタスクは、それ自体がまた二段階に分けられます。

一つは、恋愛関係。もう一つは家族、特に親子関係です。

 

恋愛関係に関する具体例が、『嫌われる勇気』に出ています。

「たとえば友人関係から恋愛に発展したとき、友達のあいだは許せていた言動が、恋人になった途端に許せなくなることがあります。具体的には、異性の友達と遊んでいるのが許せなかったり、場合によっては異性の誰かと電話をしているだけで嫉妬したりする。それだけ距離も近いし、関係も深いのです。(中略)しかしアドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。」

(岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』(2013年)ダイヤモンド社,p.116

好意が深いが故に、ちょっとした相手の言動が気に障ったり、少し相手が自分の思い通りにならないと揉めてしまったり。好意を抱く相手が自分とは違う時間・場所で幸せそうにしているのを、手放しで喜べるというのはなかなか難しいものです。

親子関係でも、例えば子離れできない親が一人暮らしをなかなか認められない、ばどといった事例に、似たような光景を見ることができると思いますが、親子関係が恋愛(結婚含む)よりも一層難しいのは、その関係を自ら断ち切るのが非常に困難という点です。

 

ただ、上記の事例はいずれも「束縛」に過ぎません。束縛は「相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考え」(前掲書, p.117)で、相手と対等な関係を築くことができていません。これではいくら好きでも好きの押し売りで、相手も自分も幸せではないでしょう。健全な関係を築きたいのであれば、互いを対等な存在として認め、相手の喜びを自分の喜びとするだけの覚悟が必要です。

 

いずれにせよ、愛のタスクは人生のタスクの中で最も深く、それ故にもっとも難しいとされています。

 

○愛の実現に向けて①〜課題を分離せよ〜

では、そんな難しい「愛」を実現するのに、一体何ができるというのでしょうか。

愛の実現を考える上で、アドラー心理学における非常に有効なアイデアがあります。

 

それは「課題の分離」です。

 

アドラー心理学においては、目の前に課題があるとき「これは誰の課題なのか」を考えます。

その方法は、「あることの最終的な結末が誰に降りかかるのか、また、あることの最終的な責任を誰が引き受けなければならないのか」(岸見一郎『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』(2017)講談社現代新書, p142)を考えることです。

例えば、子どもが勉強するかどうかは子どもの課題です。勉強してもしなくても、その責任は最終的には子どもが引き受けることになります。そこに、親が「勉強しなさい!!」とガミガミ言ってしまうと、これは親が子どもの課題に土足で踏み込むことになります。これを戒めるのが、課題の分離ということです。

一見すると放任主義のように見えるかもしれませんが、親から勉強しろ、あれをやれこれをやれと言われ続けて、たまたまそれで成功体験(優秀な大学に入るなど)を積めてしまった人が、最終的にどうなるかというと、自分では主体的に何も考えられない、自立心を失った大人になってしまいます。これは、「勉強する」という課題に親が土足で踏み込んだことによる弊害です。

 

義務教育というものもありますし、子どもに学習の機会を与えること、勉強の意義を見出す環境を作ることは大人側の義務ですが、子どもが与えられた教育を受ける権利を行使するかは、勉強した・しなかった結果を子どもが引き受けることになる、という意味で、子ども側の課題なのです。

※「子供に教育を受けさせること」は、我が国では憲法上国民の義務とされています。(日本国憲法第二十六条)

 

愛の話をしていたのに、いきなり「自分は自分、他人は他人」という話を始めて、いよいよ迷宮入りかと思うかもしれませんが、もう少し続きます。

 

○愛の実現に向けて〜相手の課題に寄り添う〜

課題を分離することによって、私たちは自己と他者との境界を明確に認識し、また他者に自分の人生を売り渡すことなく、また他者の人生に不必要に介入することもなく、他ならぬ「わたし」の人生を生きることができるようになります。

 

・・・一見すると、個人の存在ばかりが強調されて、孤立無援な状態を想起させるような「課題の分離」ですが、実はここに他者との関係をより深める鍵が潜んでいます。

 

さて、今、あなたの目の前に深い悩みを抱えた人がいたとします。

あなたは、その人に対して助言や手助けをするとして、一体どういうアプローチができるでしょうか。

 

知識や経験があれば、あれこれ口を出したくなるかもしれませんが、その悩み、すなわち相手が今向き合っている課題を解決することができるのは、相手自身です。あなたが代わりに解決することはできません。

 

具体的な技術論は数多あるコーチングや指導技術(アレクサンダー・テクニークもこの一つに入ると思います)などを別途参照いただくとして、その根底に求められる考え方を示します。

 

まず、相手が自立した一つのかけがえのない存在であることを心から認める。

相手が向き合っている課題や、それが課題としている由縁・背景に関心を持つ。

そして、相手が(自分と同じように)自ら課題を解決する可能性(possibility)を持っていることを信頼し、あくまで対等な存在として「援助」を行う。決して指示や介入はせず、相手が自ら課題を解決できるよう、サポートに徹する。

 

これを、私は「相手の課題解決に寄り添うこと」とまとめています。

手助けでもなく身代わりでもなく、ただ相手が相手自身の力で課題を解決することをサポートするのです。

そして、相手が課題を解決できた暁には、他者が自らの力で課題を解決し、そのことに自分が何らかの力になれたこと、すなわち、他者に貢献できたことを自らの喜びとするのです。

たとえ、相手からお礼や見返りが一切なかったとしても。

 

自分と相手の課題がごちゃまぜになっていると、つい相手の課題に土足で踏み入ったり、逆に相手に自分の課題を解決してもらおうとしてしまったりします。

そうではなく、まず課題を分離して自他の区別をはっきりとつけた上で、独立した個人同士として、対等な関係から相手を見るのです。

 

決して介入せず、介入させず、ただ寄り添うことを最も深く、徹底した態度で貫くこと。

これこそが「愛」そのものであると、私は考えています。

 

○「愛する」には覚悟が必要

こういう風に考えると、一つのことに気がつくのではないでしょうか。

 

それは、

 

誰に対しても愛することができる

 

ということです。

 

つまり、他者に対して、上のようなアプローチを貫くことができれば、それはもう「愛」なのです。

 

しかしながら、この「愛」には強い決断と覚悟が必要です。

まず、相手と自分が存在レベルで対等であることを心の底から認める必要があります。

相手より自分を上に置いていると指示や介入、逆に下に置いていると自己犠牲につながり、いずれも健全な関係を築くことになりません。そういった関係は、続けていくといずれ崩壊します。

 

そして、相手が自ら課題を解決できる存在であることを心から信頼しなければなりません。

同時に、自分と相手は対等なので、自分も自分自身の課題に向き合い、解決できる存在である必要があります。自分の可能性を信じていない人、自分の課題を自分で解決できない人が、他者の援助をすることはできません。

 

すなわち、自分を愛せる人が、他者も愛することができるのです。

決して自己中心的な人が良いという話ではなく、自分と他者の愛し方は同じ、ということです。

 

特定の相手を選んで愛を誓う、すなわち交際・結婚でいうところの愛も、本質的にはこの愛と同じと考えられます。ただ、その程度は他の人間関係よりも一層深く、そして近いものとなります。

パートナーとして生きるというのは、深く近い関係となるからこそ、時に様々な課題に突き当たります。その時も、徹底して課題を分離し、互いが互いの課題のためにどういうサポートをしあえるか、文字通り「比翼の鳥」として生きて行く覚悟を持つ必要があります。その関係の中で達成される「愛」は、何よりも深く充実した形になって現れるでしょう。

夜景の綺麗な公園や高級なレストランで「愛してる・・・」なんて囁くのは、「僕はカレーが好きです」と言っているのと本質的に違いはありません。

 

愛とは感情ではなく、極めて理性的な意思の表れである、と私は考えています。

 

〜以上〜