Right to be wrong
突然で申し訳ないのですが、実は今凄く個人的にやべー感じが続いてて、死にたくなるぐらいどうしようもないとか思う時もあって、こんなことしてる場合じゃねえ、なんて思っている自分もいるんだけど、その一方、誰かと話していたり、すごい絵とかを見たりすると時々自分はなんて小さいのだろう、なんて思うこともあって、全然平気になったり、お腹の底から調子がもりもり出てきたり、、とにかく色々です。
だからこそ何か、今の今、思うことを書いてみようと思って。最近読んだいろんなエッセイとか小説からめちゃくちゃ影響を受けてて、きっと同じようなこと書いたり、むしろパクってしまうだろうけど、それでも今、何か書くことは意味があると思う。
とにかく、本題に入ろう。
たまにね、日々の忙しさとか、ぐるぐる回ってる星のせいかわかんないけど、毎日起こる出来事にちゃんと一カ所一カ所、時間をかけてじっくり感じたり考えたりすることができなくなって、そういうときはすごーく、すごーく困るのです。
毎日毎日たくさん感動的な出来事や体験が起きているとは思うんだけど、もっとちゃんと味わわなければいけないなぁと思うことがよくある。もしかしたら忙しさのせいで、ぼくは心を亡くしかけていたのかもしれない。
ごはんでいうと、ちゃんと食べてはいるんだけど、最後まで噛んでいないというか、飲み込んではいるんだけど、もっと舌の上で転がして甘さとかしょっぱさとかを味わうべきじゃなかったの?的な感覚に近い。
体内に入っちゃえば同じだから、どう食べたかなんてどっちでもいいかもしれないけど、ぼくはどちらかというと食事はちゃんと視覚や嗅覚や触覚やその場の雰囲気なんかの全感覚、全神経をふんだんに使って味わうべきだと思う。何を食べるかよりも、どう食べるかだと思う。
また、誰と食べるかだとも思う。
ファミレスでも喫茶店でもどうしようもないぐらい楽しい食事はできるし、お洒落で雰囲気のよい高級な店でも、もう二度とこの人と食事をしたくないと思うような最低の食事は生まれる。有名なシェフが言ってたらしいが、皿の上で起こることは全て人生の中でも起こるのだと。
だからぼくは外で食べる食事をわりと大切にしていて、それはひとつのイベントであって、W杯とかオリンピック並みの、いわゆる「ごはん大会」みたいな。特にひとり暮らしをするようになってからはそう。ひとり暮らしの人はわかると思うけど、こんなに一日三度の食事が、ずっとやってきた基本的なことが、とても特別なことだった、なんて最近よく感じる。
食事は大事な時間だと思う。目の前にいる人と同じ空気を共有して楽しんでなんぼでしょう。そこに携帯電話はいらない。
そして、毎食毎食、大地と海への感謝の心を忘れずに...
......って、食事の話じゃなくて、、
どの瞬間も大切すぎて困ってしまうという話。
でも、やっぱり意味のない瞬間なんてないわけで、どんな時間も必要だと思う。夏風邪なのか知らないけど、鼻水をチーンってかんでいた今この瞬間も、まあ、意味はある(無理矢理?)、と思う。
音楽の話になるけど、古いソウルというかR&Bの人で、オーティス・レディングという人がいる。知ってる人は知っていると思う。で、その人の曲に''I've Been Loving You Too Long''という曲があって、邦題は「愛しすぎて」となっている。
愛しすぎて、ときた。センスのいい日本語。
要は今ぼくは愛しすぎて困っているのである。読んでいない本がたまり、聞いていないCDとレコードがその重さを増す毎日。友だちと飲みにも行きたいし、海や山にも行きたいし、知らない街を散歩したいし、美術館にも劇場にも行きたいし、ぼくらが旅に出る理由なんてきっと星の数ほどある。
旅も星も全部。それも全部俺。全部したい。
いろんなものを愛しすぎて大切すぎて困っていたのである。
そもそも、生きていて過ごす時間に順位なんてつけられないのさ。でも、愛するものって、愛しすぎるくらい愛するじゃん?もう、全部だいすき!!よくわかんないけど、って
アイシテルアイシテルアイシテル
簡単に「愛してる」なんて言葉を使いたくないのだが、他に思いつく言葉がないのでとりあえず愛してると言っている。
まわりにあるなにもかもをどれもこれも愛していて、そういうのはいけないのかな?そういうことってないのかな?なんてずっと心の中で思っていたけど、適当な愛情を微妙に持つことが出来る便利な大人の階段を上りかけてる都合のいい今の自分たち。
「はい、あれ?好きです好きです」みたいな、、
きっと、本当に怖いのは、「流される自分」じゃなくて「流してしまう自分」なんですよ
ここ最近しばらくそうやってスパスパとほいほい生きちゃってた自分が時に嫌いになって、それによって色んな弊害が出ていたり、周りの誰かに嫌な思いをさせているのだと思って、結局自分のキャパを超えちゃってる日々というのは充実してると言えるのかもしれないけど、絶対にどこかへしわ寄せがいってしまうのです。
この数ヶ月、疎遠になったり迷惑をかけた人がいたら本当にすまぬ。
それでも、何度そんな風に思っても、
やっぱり、
全部好きになって、
全部愛しすぎたい。
歓びも悲しみも、全部ポケットに詰め込んで一緒に出かけたい。
ぼくはそういう人です。
今日、さっきまで初台の新国立劇場を見学する機会があったのですが、とてもいい経験で、劇場を裏の裏まで隅から隅まで見させてもらいながら、そんな事を考えてた。
なんで、劇場で?って思うかもしれないもしれないけど、自分でもよくわからんが、そういう所に行くと感覚が敏感になるのだ。
演劇って、劇場って、表現や芸術の泉なんですよ。全部詰まってる。
文学があって、音楽があって、美術があって、技術があって、踊りがあって、
そして、
人がいる。
(明日へつづく)
だからこそ何か、今の今、思うことを書いてみようと思って。最近読んだいろんなエッセイとか小説からめちゃくちゃ影響を受けてて、きっと同じようなこと書いたり、むしろパクってしまうだろうけど、それでも今、何か書くことは意味があると思う。
とにかく、本題に入ろう。
たまにね、日々の忙しさとか、ぐるぐる回ってる星のせいかわかんないけど、毎日起こる出来事にちゃんと一カ所一カ所、時間をかけてじっくり感じたり考えたりすることができなくなって、そういうときはすごーく、すごーく困るのです。
毎日毎日たくさん感動的な出来事や体験が起きているとは思うんだけど、もっとちゃんと味わわなければいけないなぁと思うことがよくある。もしかしたら忙しさのせいで、ぼくは心を亡くしかけていたのかもしれない。
ごはんでいうと、ちゃんと食べてはいるんだけど、最後まで噛んでいないというか、飲み込んではいるんだけど、もっと舌の上で転がして甘さとかしょっぱさとかを味わうべきじゃなかったの?的な感覚に近い。
体内に入っちゃえば同じだから、どう食べたかなんてどっちでもいいかもしれないけど、ぼくはどちらかというと食事はちゃんと視覚や嗅覚や触覚やその場の雰囲気なんかの全感覚、全神経をふんだんに使って味わうべきだと思う。何を食べるかよりも、どう食べるかだと思う。
また、誰と食べるかだとも思う。
ファミレスでも喫茶店でもどうしようもないぐらい楽しい食事はできるし、お洒落で雰囲気のよい高級な店でも、もう二度とこの人と食事をしたくないと思うような最低の食事は生まれる。有名なシェフが言ってたらしいが、皿の上で起こることは全て人生の中でも起こるのだと。
だからぼくは外で食べる食事をわりと大切にしていて、それはひとつのイベントであって、W杯とかオリンピック並みの、いわゆる「ごはん大会」みたいな。特にひとり暮らしをするようになってからはそう。ひとり暮らしの人はわかると思うけど、こんなに一日三度の食事が、ずっとやってきた基本的なことが、とても特別なことだった、なんて最近よく感じる。
食事は大事な時間だと思う。目の前にいる人と同じ空気を共有して楽しんでなんぼでしょう。そこに携帯電話はいらない。
そして、毎食毎食、大地と海への感謝の心を忘れずに...
......って、食事の話じゃなくて、、
どの瞬間も大切すぎて困ってしまうという話。
でも、やっぱり意味のない瞬間なんてないわけで、どんな時間も必要だと思う。夏風邪なのか知らないけど、鼻水をチーンってかんでいた今この瞬間も、まあ、意味はある(無理矢理?)、と思う。
音楽の話になるけど、古いソウルというかR&Bの人で、オーティス・レディングという人がいる。知ってる人は知っていると思う。で、その人の曲に''I've Been Loving You Too Long''という曲があって、邦題は「愛しすぎて」となっている。
愛しすぎて、ときた。センスのいい日本語。
要は今ぼくは愛しすぎて困っているのである。読んでいない本がたまり、聞いていないCDとレコードがその重さを増す毎日。友だちと飲みにも行きたいし、海や山にも行きたいし、知らない街を散歩したいし、美術館にも劇場にも行きたいし、ぼくらが旅に出る理由なんてきっと星の数ほどある。
旅も星も全部。それも全部俺。全部したい。
いろんなものを愛しすぎて大切すぎて困っていたのである。
そもそも、生きていて過ごす時間に順位なんてつけられないのさ。でも、愛するものって、愛しすぎるくらい愛するじゃん?もう、全部だいすき!!よくわかんないけど、って
アイシテルアイシテルアイシテル
簡単に「愛してる」なんて言葉を使いたくないのだが、他に思いつく言葉がないのでとりあえず愛してると言っている。
まわりにあるなにもかもをどれもこれも愛していて、そういうのはいけないのかな?そういうことってないのかな?なんてずっと心の中で思っていたけど、適当な愛情を微妙に持つことが出来る便利な大人の階段を上りかけてる都合のいい今の自分たち。
「はい、あれ?好きです好きです」みたいな、、
きっと、本当に怖いのは、「流される自分」じゃなくて「流してしまう自分」なんですよ
ここ最近しばらくそうやってスパスパとほいほい生きちゃってた自分が時に嫌いになって、それによって色んな弊害が出ていたり、周りの誰かに嫌な思いをさせているのだと思って、結局自分のキャパを超えちゃってる日々というのは充実してると言えるのかもしれないけど、絶対にどこかへしわ寄せがいってしまうのです。
この数ヶ月、疎遠になったり迷惑をかけた人がいたら本当にすまぬ。
それでも、何度そんな風に思っても、
やっぱり、
全部好きになって、
全部愛しすぎたい。
歓びも悲しみも、全部ポケットに詰め込んで一緒に出かけたい。
ぼくはそういう人です。
今日、さっきまで初台の新国立劇場を見学する機会があったのですが、とてもいい経験で、劇場を裏の裏まで隅から隅まで見させてもらいながら、そんな事を考えてた。
なんで、劇場で?って思うかもしれないもしれないけど、自分でもよくわからんが、そういう所に行くと感覚が敏感になるのだ。
演劇って、劇場って、表現や芸術の泉なんですよ。全部詰まってる。
文学があって、音楽があって、美術があって、技術があって、踊りがあって、
そして、
人がいる。
(明日へつづく)