いつか私が大河ドラマでなくてもいいから、幕末でこの人物を題材で取り上げて欲しいと思う人がいます。

桑名藩主・松平定敬

私はもう会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬の高須ブラザーズが大好きで大好きで、慶喜と共に京でユニット組んだ時(一会桑政権)も慶喜に謀られて開陽丸で大坂城から逃亡する時も、慶喜に切捨てられて江戸から追放された時も兄弟一連托生なのもそうはないでしょう。こうしてみると慶喜に良い様に利用されていたように見えなくはないが多分気のせい。いずれにせよ、もし定敬が登場してほしいと言えば、

昨年2025年大河べらぼうでの長谷川平蔵を好演した中村隼人氏ですね。

「八重の桜」でも同じく定敬公だった彼に是非とももう一回定敬を演じていただき、家臣の立見鑑三郎と共に新政府軍の前に立ち塞がり、桑名無双を成し遂げるところ見てみたい!

山縣有朋「げぇ!桑名定敬!」「わわわ、立見鑑三郎だ!」

と狂介をボコボコにするところを見てみたい…おっとなかなか我ながら歪んでいますが、桑名藩主従が各地を転戦しながら戦い、しかし衆寡敵せず降伏…からの所からの明治での活躍へとつなげる構成。八重の桜では綾野容保公と第26話の滝沢本陣で別れたところで出番が終了してしまいましたが、何としてでも明治の再会するところまで見てみたいと思うのよね。さて、ところで何で桑名藩主である定敬が桑名から遠く離れた越後柏崎に向かったの?と思われるかもしれませんが、これには理由がありまして、それが今回紹介する

 

桑名藩の分領である柏崎陣屋があったためでした。

桑名藩の藩主家である久松松平家は18世紀半ば、八代将軍吉宗の時代に寛保元年(1741)まで越後高田藩の大名だったのです。この年に陸奥白河へと国替えとなった時に、越後への領地は一部残された為、この飛び地となる越後領統治のために現在の柏崎市内に陣屋を構えたのでした。その後、昨年の大河べらぼうで久松松平家は吉宗の孫であり、寛政の改革の主導者である松平定信を養子に迎えて、19世紀に桑名へと国替えとなった後も越後の柏崎陣屋は保持し続けました。

 江戸から退去せざるを得なかった松平定敬はここ柏崎へと移動し、ここで謹慎を待ちます。この時、本国桑名では藩士たちは既に恭順を決め、前藩主の実子を当主に迎え、定敬は既に表向きは廃絶されたと身となりました。しかし、抗戦派の藩士たちは柏崎へ集結し、定敬もまた恭順論を唱える家老の吉村権左衛門を誅殺し、柏崎の桑名藩士たちは抗戦へと舵を切りました。ここで桑名主従は実力を重視した部隊を編成、ここで頭角を現したのが雷神隊を率いることになる立見鑑三郎でした。柏崎陣屋を本営とする桑名藩は新政府軍と鯨波で対峙し(鯨波戦争)するのですが、新政府軍の越後侵攻は中越に及び、柏崎の位置は孤立の恐れがあり、桑名主従は加茂まで後退。ここで長岡藩などと共闘し、北越戦争~会津戦争~箱館戦争を戦うことになるのでした。

柏崎陣屋についてはその後、明治になると柏崎県庁が置かれますが、明治6年に新潟県へと合併となり、消滅しました。

なお、その後松平定敬はその後、西南戦争では自らもまた旧藩士たちを率いて出征

と言いつつ、かつて救援できなかった会津藩士たちとともに西郷軍と戦うというシーンで締めると非常に良いのではないでしょうか。以上、桑名定敬大好きな装鉄城の妄想でした。

 

 

柏崎へは新潟から信越本線でいざ、柏崎まで。かつては115系の王国だった新潟も今ではすっかりJRになってからのイエローとピンクの帯をまとった新型車両へと置き換わり、すっかり様変わりとなっていました。長岡までは新潟都市圏の通勤路線でしたが、その先の信越本線はローカル線。列車の本数もガクンと減っていき、田園地帯を走っていきます。

目的地の柏崎駅に到着

柏崎の玄関口ですが、通勤時間帯以外は人気も少ない。駅舎自体は非常に大きく立派なものです。

 

柏崎陣屋までは駅から徒歩で20分ほど

住宅街の一角に石碑が残っています。

陣屋の解説板

ここに桑名藩の越後領を支配する御役所、天領を預かる預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、郡代を筆頭にした役人とその家族の住む長屋などが置かれていました。

案内板があるのは住宅街の中であり、マップを確認しておかないと分からないので注意が必要

大手道

かつて藩士たちが居住していた長屋跡です。今となってはかつて定敬や立見らが集まり、気勢を上げていた様子は想像でしか補えない状態。せめて案内板での解説が充実していたのが救いです。

 

〇アクセス

JR信越本線柏崎駅から徒歩20分

 

「柏崎陣屋に狼煙が一本…」