三重県亀山市、滋賀県との県境にある史跡で「正法寺山荘」という史跡があります。「山荘」というと城じゃないじゃん!というご指摘を受けそうです。実際、訪問してみると土塁や石垣などはあるものの、どう見てもこれは「城」じゃないよなという正直な感想であった。それでも本ブログでも取り上げたのはこの「山荘」は鈴鹿山脈を背後に控えた羽黒山に位置し、小野川を蛇行する地形によって三方を川に囲まれた天然の要害を形成していたからでありました。「山荘」自体の防御力は決して高くありませんが、立地そのものが重要。それでいて、現在も真夏でも国指定史跡として、綺麗に整備されています。
亀山市街から北西へと進んでいき、ドンドンと人里を離れて市街地から集落へと人家が少なくなり、山へと近づいているに従い、車も人も見かけず進んでいく私と愛車。正法寺山荘へは矢印看板を左と進んでいくと狭い道で羽黒山を大きく遠回りするように整備された道へと車を走らせていく。なんでもこの道、元々は発掘調査時に設けられた道をそのまま山荘へと進む道路へと転用されたそうである。
上方の高台から見た正法寺山荘の全景、7月だというのにまるで紅葉に彩られた秋のような真っ赤な葉を生い茂らせた木がどこか幻想的な雰囲気を醸し出し、史跡としての独特な空間を形成されている。
やがて下り坂を下りていくとそこは駐車場兼史跡への入口となっている広大な砂利の空間となっていました。
遠くからでも土塁が少し草が生えていますが、
凄いのは建物の礎石までも遺されている点
石組みで敷かれた水路までありました。
建物こそないですが、それでも「山荘」ということもあってかつては多くの人が集まる建物があったことは容易に想像できる構造です。
石塁もどっちかというと寺院の各坊の区画を分ける為のものといった感じでしょう。
この辺り、どこか城の「桝形虎口」を思わせる構造をしております。
山荘内にはかなり木組みがかなり壊れていますが、井戸もありました。この辺りは史跡として当初はかなり綺麗に整備されていたのではないでしょうか…残念ながらその維持が最近できていないのではないかという気がしないでもありません
山荘はかなり広大な敷地であり、東西130m、南北140mに及ぶ平坦地を造成して築かれました。
かつてはここから小野川へと降りる道が本来のこの山荘の入口でした。
外郭の土塁…ですが、その高さは1mほどで敵兵に攻め込まれたら一たまりもないもので、やはり戦闘施設という感じがない。
広大で広い敷地に残された土塁や石垣が草に埋もれながらも必死にかつての姿を保とうとしている姿
正直言うとここは秋~冬位に訪問した方がちょうどよかったかな…7月では草も結構生い茂っているし
それでも木で作られた案内板にはかつての山荘の構造が描かれており、やはりここは寺院の僧坊であるのが感じられました。そういえば、どこか寺院を巡っている感覚があるのもそれが理由ですね。人里離れた山奥に残る史跡は山荘でもあり、寺院でもあり、それが史跡として保存整備されているのが非常に今回「来てよかった!」言える史跡でした。ここを築いた伊勢の国衆である関氏が山奥深くに築いた生活空間として考えれば、その静けさは「聖域」にも近い感覚で訪問することが出来ました。
〇寺院が山荘となるまで
かつて羽黒山には城砦が構えられていた場所に永正2年(1505)に関盛定に乞われた京都大徳寺の東渓和尚が開基した正法寺が開基したのが始まりでした。関盛定は文人などを招いてここを山荘地として、文化交流の場としていました。大永2年(1522)、7年(1527)に訪問した連歌師宗長がその様子を「宗長日記」に記しています。
しかし、理由は不明ですが、戦国時代にはあれほど栄えた正法寺山荘は17世紀初頭には廃絶状態となってしまいました。以降、380年近くの時を経て昭和52年(1978)から発掘調査が行われ、戦国時代の有力武士の居館として、また文学史上の重要な遺跡として「正法寺山荘」として国指定史跡に指定されました。風雅な山荘と、城砦としての姿を併せ持ち、なおかつ本質は寺院といういくつもの性格を併せ持つ史跡、それが正法寺山荘です。
〇アクセス
JR関西本線関駅から徒歩50分
「正法寺山荘に狼煙が一本…」





























