image
 

 

山形県尾花沢市にある延沢城…交通の便が良いとは言えない立地ですが、ここは昔延沢銀山があり、非常に栄えた地でした。その名残はフォトスポットとしても有名な「銀山温泉」に残っており、かつては銀山の採掘で栄えた地に設けられた湯治場だったのがその由来です。そして銀山を守る役割を担ったのが、この地にある延沢城でした。更に戦国期以前、ここは東西南北を通じて、東北各地へ行く街道が交差する要衝。そのためか、この延沢城極めて技巧的な構造をしており、なんと桝形虎口まで備えています。素晴らしいことにその遺構は良好に保存整備されていて、歩きやすくそして史跡として申し分ない出来でした。
山形県の隠れ名城としてお勧めしたい
さてそんな延沢城ですが、これが公共交通機関での利用が非常に難しい。まず鉄道・バス乗り継ぎでいかないといけないのですが、最寄り駅である山形新幹線(奥羽本線)大石田駅から直通便が無く、一度尾花沢待合所まで移動し、その後コミュニティバスで移動するというちょっと訪問難易度の高い城でもあります。今回は山形からレンタカーでの訪問することでようやく実現することができました。

城の麓には公民館があり、ここに車を止めることができます。またここには延沢城のパンフレットがあり、その意味でも日中での訪問をお勧めしたい。ここでは無事パンフレットを入手することができました。

 

かつては城の城下町として栄えた常盤地区の町。今では日中にも関わらず、車もほとんど走らず、人気のない静かな町でもありました。

城跡の入り口にあたる大手門はそんなメインストリート沿いにひっそりとあります。「大手門」という呼称ですが、現在ではまるで通用口のような間口の狭さ

それでも城への道は現在でも残っています。

延沢城は麓にあたる箇所が三の丸跡となっています。

現在ではその多くは小学校グラウンドとなっていますが、それでも一部にはかつての城跡遺構が残っています。

三の丸家臣屋敷跡

奥のほうに土塁がめぐらされています。

このあたりにも屋敷が立ち並んでいたと思われます。

延沢城のウォーキングマップ

山頂の主郭跡へは七曲りコースと天人清水コースの2つのコースがありますが、最終的にはどちらでも回っていけます。上り下りでそれぞれのコースを回るのが効率的なめぐり方になります。

ここからは七曲がりコースという道がクネクネ折れ曲がっての登り道となります。それでも非常に歩きやすく、そんな苦も無く登れることができました。

麓から歩くこと20分ほどして

そしていよいよ城域に突入です。

近世まで使用されたとあって、極めて技巧的な桝形虎口がまずは出迎えてくれました。

延沢城が凄いのは本丸跡まで入るまでに二重の枡形虎口があり、かなり厳重な防備が敷かれていたことが分かるという点。

2つ目の枡形虎口

それにしても本丸がすぐ傍まで来ているのに二重の枡形虎口と本丸を囲っている土塁が視界を遮断し、攻め手からは全く見えない構造になっている。厳重な防備です。

虎口の土塁

下から歩いて20分、遂に主郭到達です。

きちんと視界が開けてここから尾花沢一帯が見渡せました。

城跡の中心部には石碑と樹齢500年に及ぶ特別天然記念物の大杉が聳え立っていました。かつて城が現役であった頃からその歴史を見つめてきた大杉…まさにロマンチックな幻想に思いふけってしまいました。

本丸土塁

石碑

こちらは搦め手虎口跡でしょうか?

帯曲輪跡

少し主郭で休息しますが、それにしてもこの主郭の広いこと。かなりの規模を誇っており、単なる一国衆の山城ではない要衝の城という感じですね。

幸運だったのは訪問時期が4月で雪解け直後とあって、雑草がほとんどなく、ほぼ土の状態で観察できること。
夏だったらこういうわけにはいかないですからね。

それではもう一つのコースを下っていきます。

再び幾重にも折り重なった枡形虎口をくぐり、

二の丸跡

こちらもかなりの面積を誇ります。

台所跡

二の丸への出入り口も土塁を上る構造です。

ここの虎口も折れ曲がり、城への侵入経路が長くなるように設計されています。

二の丸の堀切部分に今も水が張る清水「天人清水」なるほど幻想的なネーミングに違わないきわめて規模の大きな清水で、貴重な水源ですね。

城への進入路はこの狭い堀切を潜らねばならず、これだけでもなかなか考えられています。

途上にある水の出
こちらはかろうじて湧き水レベルの水が出ていました。
 
延沢城は極めて規模の大きく、しかも近世まで使用されたこともあって極めて技巧的な山城でした。流石に銀山防衛、交通の要衝という戦略的立地故にでしょうか。その技巧的な構造を思う存分堪能でき、山形県でも秘境の城としておすすめです。
〇交通の要衝延沢城の歴史
城主の延沢氏は小田嶋荘地頭の小田嶋長義の末裔を自称し、古文書によれば延沢氏は『殿』と付けられる格式の家で出羽国の有力国人でした。戦国末期には最上下郷一揆国人衆の有力者となる一方、天正12年(1584)には大名権力を伸長させていた最上義光に服属し、天童氏の没落に大きな役割を果たしたのでした。その後は最上氏重臣となり、最盛期には大石田地方3万石を領有する一大領主へとなりました。元和8年(1622)最上家が改易されると延沢氏は肥後熊本へと移転。その後、鳥居氏が山形藩主となると延沢城は隣国仙台藩伊達政宗への備えということで、特別に存続が許されました。しかし、やがて城の維持管理がされなかったようでやがて城は荒廃し、寛文7年に城は廃城されることになりました。
 

〇アクセス

JR奥羽本線(山形新幹線)大石田駅から車で約20分

常盤公民館から主郭まで約20分

 

「延沢城に狼煙が一本…」