東北の玄関口・白河市には3つの「城」がありました。一つは先週ご紹介した古代の白河関、もう一つは今回最後に言及する江戸時代の近世城郭・白河小峰城、そしてその狭間に中世白河の城がありました。それが今回の
白川城
現在の白河市街地から東へ3キロほどの場所に築かれた城。その歴史は鎌倉時代から始まります。鎌倉御家人の一人として、平家との戦争に活躍した結城朝光は文治5年(1189)の源頼朝の「奥州合戦」で活躍し、その恩賞として白河荘を与えられ、彼の孫である祐広は、鎌倉後期に白河を拠点にして、白川城を築いたとされます。そしてこの白河結城家で最も有名なのは祐広の息子
漫画『逃げ上手の若君』で恐怖のシリアルキラーとして作品世界内でもドン引きの存在として強烈な印象を残した結城宗広でしょう(笑)つい最新話でも遂に壮絶なるそして見事な(?)最期を遂げましたね。
史実での彼の経歴を記すと、後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕戦争において、新田義貞らと共に鎌倉攻撃に参加して、鎌倉幕府滅亡に追い込みました。
新田義貞と並ぶ北条時行くんの直接の仇でもありますね
そんな彼と時行くんが北畠顕家卿の旗下で活躍するとはこれまた数奇な運命。そんなこんなで後醍醐帝からも厚い信頼を得た宗広は帝からも「公家の宝」と称されるほどの活躍ぶりでした。しかし、やがて結城宗広は『太平記』でシリアルキラーの汚名と共に不帰の人となり、彼の子孫はその後遂に南朝から離脱することになってしまいました。
白河結城氏はその後、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任命され、室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を誇る南奥の雄になるに至りました。
しかし、戦国初期に白河結城氏の宗家は衰退し、やがて一族の小峰氏に取って代わられます。その後は、現在の白河小峰城へと拠点となったのでした。やがて白河結城氏は天正18年の豊臣秀吉による奥州仕置で改易し、ここに南奥州に大きな勢力を誇った白河結城氏はその歴史に終焉を迎えたのでした。この白川城もまたいつしかその歴史を終えたと見られます。
〇広く、そして登り易く
白川城跡へは白河関と共に、バスで行くには少し不便ですので車で行くのがいいです。ただ、実は駐車場らしい場所が見つけにくいのが難点。一度実は駐車場らしい場所と思しき所へ車を入れたら、そこはただの空き地でした。しかも地面の状態が悪く、もう1回出るのに苦労してしまう羽目に。
白川城への入口
同城は御本城山の頂上にあり、比高は60mほど。非常に登り易く、山城としては比較的楽でした。
本丸へは階段でつながっています。
白川城の主郭跡
流石に南朝の主力武将とあってか、結城宗広を顕彰する石碑も設置されていました。ただ、その代わりに城跡としての遺構は少ない…
空堀跡
城跡の縄張り図
土塁跡
土塁跡
堀切跡
虎口の名残でしょうか。登城道への途中を塞ぐように築かれた土塁跡があります。
残念ながら、白川城は中心部である主郭周辺以外は余り整備がなされておらず、広い城内で見れる遺構は少なかったのがちょっと残念な点でした。
途中で南湖公園に立ち寄ります。
同公園はこれまた白河藩主の松平定信が身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造されました。通常、大名家が造成した庭園というのはあくまでも支配者である武士階級しか立ち入れない聖域。しかし南湖は誰でも見れると言う点で画期的でした。
そして今でも分け隔てなく、誰でも楽しめる国指定史跡の景勝地です。
さて、それでは白河駅にて車を返却し、最後に…
〇11年ぶりの登城・白河小峰城再訪記
思えば長い日々でした。
私が白河小峰城を訪問したのは2010年夏のこと。当時としては日本全国でも珍しい木造復元の御三階櫓…実質的な天守が印象的でした。しかし、この本丸を踏み入れられたのはこの時だけでした。
その半年後に東日本大震災で白河小峰城は大きな被害を被ることになりました。
石垣が崩落し、しばらく白河小峰城の城内、なかんずく中心部の御三階櫓はしばらく立ち入ることはできないまま時が過ぎたのです。一応修復工事が進み、その後数年で石垣部分までは立ち入れるようになったのですが、本丸部だけはしばらく立ち入れないままでした。
2021年遂に白河小峰城の中心に遂に入れる日が来ました。
ああ、ようやくまたこの雄姿を見ることが出来ました。
幸い、この御三階櫓は地震による大きな被害はありませんでしたが、それでも10年以上も入ることはできなかったのです。
災害は城にも大きな爪痕を残します。
木造の櫓内はやっぱりいいですね。
ようやく再びこの櫓に足を踏み入れられて感無量
ただまだ完全には修復は終わっておらず、未だ工事継続中でした。
〇アクセス
JR東北本線白河駅から車で12分
「白川城に狼煙が一本…」

























