高須藩

現在の岐阜県海津市にある3万石程度の小藩です。それこそ、このくらいの石高の大名家といえば、数百にも及ぶ「どこにでもある」藩でした。しかし、この小藩はある意味では徳川幕府の終焉において大きな存在を生み出す母胎ともなりました。

高須4兄弟

美濃高須藩は元々尾張徳川家の御連枝(分家)として、徳川親藩大名として高い格式を有していました。特に10代目藩主の松平義建は子女にも高い教育水準を充実させ、その息子達の多くは各大名家の養子として、それぞれ活躍

次男の義勝は尾張藩宗家へ

五男の茂徳は一橋家へ

七男の容保は会津藩松平家へ

八男の定敬は桑名藩松平家へ

幕末の激動はそれぞれ敵味方へと分ける対応を迫られます。義勝は新政府側として、茂徳は宗家存続の為の恭順路線へ、そして容保・定敬は佐幕強硬派としてそれぞれ戊辰戦争の激動へと身を呑まれたのでした。それでも明治後には再会し、集合写真を撮影したりしているのを見るとホッとした気分にもなります。松平容保・定敬の高須ブラザーズ大好きな人間としては一度は訪れてみたい地でした。勿論高須藩は江戸定府(藩主は江戸に常時在留で、国元には特別な場合にのみ帰国する)であり、高須兄弟も江戸生まれなので、彼らは恐らく高須に行ったことがあるかどうかは定かではありませんが、それでも一度は訪れてみたい場所でした。

 

〇河口の船着き場が残る城跡

高須へは大垣から南下し、公共交通機関なら養老鉄道で車なら258号線で揖斐川沿いに走ると30分ほどでつきます。この辺りは地図で見る通り、揖斐川・長良川・木曽川と河川が集中する地で、水害氾濫が頻発する地。教科書なら一度は習った輪中と呼ばれる地形が車窓からでも実感できる地です。

城跡自体は現在は高校の敷地となっており、

僅かにグラウンド沿いに土塁があるかな?程度

高校手前の公園に海津城についての解説板がありました。

城の外堀部分は今ではポケットパークとなっています。

 

ここから北側がかつての高須城の城域でした。

主水橋

初代高須藩主である徳永氏が築いたと言われる橋

高須城のとっての大手橋に当たる場所であり、主水の由来はこの橋のすぐ近くに屋敷を構えた重臣の名からと伝わります。

藩校・日新堂があった場所に残る二本松

1800年代に植えられた松の木で、今は一本のみが健在でした。現在敷地は海津小学校となっています。

 

さて高須城自体の遺構の残りは上記の通り、寂しいものですが、実はもう一か所高須城に関連する施設があります。それは長良川沿いに設けられた海津歴史民俗資料館と船着き場は訪れてみましょう

この地域で独自に発達した水田である「堀田」島のように田があり、その周りを水路のようにして、船で収穫物を運搬するものでした。敷地内に復元されています。

城郭風の歴史民俗資料館

この内部にはかつての御殿の一部を復元した区画もあり、高須訪問時には絶対ここを寄っておいてよかったと思えるものでした。あのまま城跡だけだったら不満が残ったでしょうから…

こちらも復元された大名船着き場

城跡の遺構だけが全てじゃない。こうして、郊外にでもかつての高須の城の名残が残っていることは貴重です。ここだけでしか見れない貴重なものがあるかもしれない…と言われるのですから。

河川が集中し、多くの水に溢れた地・高須。それでも今は長閑な風景が広がっていました。

 

〇関ケ原戦時の興亡

高須城の歴史は古くは南北朝時代に氏家氏が築いたのが始まりと言われています。その後は頻繁に城主は交代し、豊臣政権時代には高木盛兼が城主でした。関ケ原合戦時、高木は西軍に属していたのですが、これがために東軍側の徳永寿昌に攻め込まれ、落城しました。その後は徳永寿昌が城を改修して、高須藩として城下町の整備を行いました。その後、小笠原氏を経て、江戸中期に尾張徳川家の御連枝である松平家が入封します。なお、尾張藩宗家も高須松平家も元々は藩祖・徳川義直の血統が途中で途切れ、水戸徳川家の血統となり、幕末に高須四兄弟を輩出したのは先述の通り

 

〇アクセス

養老鉄道駒野駅から徒歩30分

 

「高須城に狼煙が一本…」