滋賀県は戦国時代でも英雄たちの治乱攻防の激しかった地域であり、多くの城が築かれた地域でもあり、その中でも多くの名城が誕生した誇るべき城郭先進県でもあります(近江国出身者の誇り)。織田信長が築いた安土城、浅井長政の居城・小谷城、井伊家が築き上げた近江を代表する彦根城、六角氏が築きし巨大城塞・観音寺城etcさて、そんな多くの城が残る滋賀県の中で、意外なことに一番城についての注目されないのが、
県都・大津市
であったりします。これは一つには交通の要衝であったことから近代になって開発が進んでしまったこと。元々は江戸期には幕府領だったことも関係しているかな…と思われます。そしてそんな大津市街地に「一応」城跡として残っているのが、今回紹介する大津城。最も残念ながら殆ど断片的なのがネックで、実は滋賀県訪問した中ではかなり後の方となりました。
 
〇僅か10年で消え去った琵琶湖水運の城
元々大津の地の中心はかつて比叡山延暦寺のお膝元でもあった坂本であり、延暦寺焼き討ちの後には明智光秀がこの地を所領として与えられ、築いた名城が御存知坂本城。しかし、謀反人の城であることが忌避されたのか、天正14年~15年(1586~1587)に既に天下人としての地位を築き上げた豊臣秀吉は浅野長政に命じて、坂本城を廃城とし、大津に城を築くよう命令します。大津城の役割は元々、琵琶湖の水運を利用して上方へ物資を運ぶための物流の為の城。そのため、ここに配置される大名もまた豊臣の大名として増田長盛らであり、そして文禄4年(1595)からは淀殿の妹初の夫である京極高次が城主となりました。
 慶長5年(1600)の関ケ原戦役の際、高次は当初西軍に属していましたが、形勢が東軍有利と判断するや大津城に籠城、これに対して西軍は毛利家一門毛利元康や九州屈指の勇将・立花宗茂らを派遣。大津城は元々物資集積の基地であり、周囲に比べて城自体が低地にあるという戦闘施設としては致命的な欠陥があり、周囲の山から砲撃を受けるなどして、落城寸前に追い込まれました。この時、近距離にあり、音を聞きつけた京の町人が物見遊山で大津城の籠城戦を見物していたのは有名な話。結局9月15日に降伏開城となったのですが、結果的に関ケ原本戦に西軍はこの部隊が転用できなかったことも響いて敗戦。高次はこの功績を認められて、若狭小浜に8万2千石で加増されたのでした。さて、大津城はこの戦いでボロボロとなり、また先の欠陥が明らかになったためか、翌年には膳所城が築かれ、以降はこの地が京の東を護る要所となりました。大津城の資材はその後、彦根城に転用されたと言われます。

 

 

 

 

 

 

大津城へはJR東海道線大津駅より、京阪浜大津駅を利用する方が遥かに近いです。

びわ湖浜大津駅

滋賀県においては数少ない私鉄である京阪電車が三条~大津から坂本・石山へと鉄道ネットワークを築き上げています。

大津城の本丸跡は琵琶湖に面したまさに水の城。それがために、現在では大津港の一部となっており、もはや遺構などは残っておらず、今では公園となっています。

残念ながら殆ど城跡としての面影はありません。

 

 

びわ湖遊覧船として大津の人気スポット「ミシガン号」

水運で栄えた大津港の繁栄も今は昔。鉄道・道路といった交通機関の発達により、大津港は今では観光船が運航される長閑な港となっています。

あの対岸にあるのがかつて明智光秀が築けし坂本城があった場所です。こちらもまた殆ど遺構が残らず市街地に埋もれた城…だったのが昨年まさかの貴重な石垣遺構が発見。今では史跡保存が成されるようになっており、今や再び大津の城は坂本城に注目が浴びるようになっています。

さて大津城自体は遺構が殆ど遺されていませんが、市街地にはかつて「大手門跡」などといった具合にかつての城の名称が石碑で残っています。

さてその中で僅かに残された遺構が大津祭曳山展示館の裏手にある

何だかすっかりほんの一部がかろうじて残された貴重な大津城の遺構、石垣が残されていました。

今となってはすっかり埋もれてしまい、あまり注目されることも少ない大津城。その断片がこちらでした。

 

〇アクセス

京阪浜大津線びわ湖浜大津駅からすぐ本丸跡、石垣へは徒歩10分ほど

 

「大津城に狼煙が一本…」