滋賀県東近江市、湖南の平野部はかつては近江守護大名だった六角氏の支配領域。その地には多くの城館が存在していました。ここ後藤氏館はその中の一つ。城主はその名の通り、六角氏重臣後藤氏でした。後藤氏は六角家中において大きな勢力を持つ重臣でしたが、やがて主君と対立。永禄6年(1563)後藤賢豊・壱岐守親子は、六角義治によって観音寺城内で誅殺。これが六角氏を揺るがす観音寺騒動へと発展します。これに反発した家臣団によって、六角家中は大分裂し、六角義賢・義治親子は一時観音寺城退去に追い込まれ、挙句「六角氏式目」と呼ばれる分国法を認めるに至ります。通常の分国法が戦国大名の権威と統制力強化を目的としているのに対し、六角家が制定したこの法の目的は大名当主の権力制限…六角家版マグナ・カルタという目的としたものでした。かくして、折角の六角家の大名権力強化を目的とした後藤氏誅殺は大失敗に終わり、後藤氏家督は賢豊次男の高治が継承。結局、衰退した六角家はこの後の織田信長の上洛戦で目立つ抵抗をすることなく、大名としての六角は歴史の表舞台から退去したのでした。なお、後藤高治はその後、織田信長次いで同じ六角家臣で躍進した蒲生氏郷の家臣となります。
後藤氏館へはJR東海道線近江八幡駅からバスで乗車します。まだ滋賀県はバスの本数はそれなりにありますが、ここも最近どうなるやら…1番乗り場から乗車して、10数分「羽田西」バス停にて下車。近くに光照寺という寺院があり、その周囲は田園風景が広がります。
やがて見えてきたのが紛れもない土塁跡が見えてきました。
9月とあってかかなりの草むらが生い茂っておりますが、それでも間違いなく方形居館の土塁が遺されていました。
土塁近くにある後藤氏館の案内板。かなりの劣化が著しく、文字も一部判読できないものとなっていました。
復元された石垣門
流石に石垣技術の発展した近江国。こういった居館にも石垣が組まれているのですから。
残念ながらこの中心部、つまりは居館内部は立ち入ることはできません。現在ではすっかり田畑となっているからです。ただ過去に発掘調査が行われており、礎石建物群などの遺構が発見されています。
土塁は高さ3メートル、下幅15メートル前後、上幅7メートル前後の巨大なモノとなっています。
広がる田園に残された巨大な土塁
かつての六角氏重臣の城館は今も田園の中にその巨大な土塁、と石垣虎口が遺されています。
〇アクセス
JR近江八幡駅から近江鉄道バス「長峰線」に乗車して、羽田西バス停下車(約12分、430円)徒歩10分
「後藤氏館に狼煙が一本…」