〇茨城最後の城巡り

 

2年という僅かな期間でしたが、楽しく過ごしていた常陸国。その去り際の最後に訪れたのはここ助川海防城。茨城県は中南部は結構多くの城跡を訪れていましたが、北部は列車の本数が激減する関係でなかなか訪れる機会がありませんでした。その中で今回

茨城県最北、そして最後の城巡りをご紹介します。ああ、また茨城に行きたいなぁ…

常磐線で住まいから数駅ほど北の日立駅に到着。水戸以北の常磐線では流石は企業城下町の駅とあって、結構な大きな駅です。

この駅、最大の特徴は太平洋の海を大パノラマで見ることができる海の駅という点

このガラス張りの展望台から見る海の光景は絶景だと評判です。

ガラス張りの展望台から見た太平洋の海

常磐線の風景

訪問した7月とあって、晴天故非常に暑いことこの上なし。日中でも人も車も多い場所です。

病院付近にある大手門跡

二の丸跡にある養正館跡

幕末という時代の特殊性もあってか、助川海防城には城に駐在する武士達の教育施設が設けられました。流石に窮迫した時代の為にどうしても軍事訓練がメインとなっているようです。

二の丸跡

不毛な内戦のために灰燼と帰した海防城…今となっては残された遺構としてはこうして城の原形となる曲輪の地形と僅かな遺構のみが往時の生き証人

今は助川城跡公園となっておりますが、静かなものでした。

なんとここで石垣!おお、城の遺構か!…

…残念ながらこれらの「城の石垣」は公園化の際に築かれたもので、当時の海防城とは関係ないものでした。

本丸跡です。流石に石碑と案内板がありました。

僅かに残る城跡の遺構として本丸表門の礎石が数少ない残りです。

ここはかつて「助川」と呼ばれた日立市内の高台に位置し、町と海を眺める展望台ともなっています。

かつてはここを異国船の襲来に備えて、海防の為に設けられた海防城。残念ながら城跡としての残りは少ないものでしたが、これによって茨城での生活での城巡りは終焉を迎えたのでした。

ああ、また茨城へ戻りたい…

 

〇水戸藩、海防目的の「築城」

天保七年(1836)幕末の水戸藩主烈公こと徳川斉昭は度重なる異国船の来航に対して、幕府始め天下に海防の必要性を叫び、範を垂れるために水戸藩で海防に特化した城の建設を開始しました。太平洋を一望におさめることのできる助川村の高台、要害の地形に拠って城を築き、そこに家臣を在住させる幕末の城づくりでした。

 城主に任命されたのは(正しくは『海防総司』)家老の山野辺義観。水戸藩代々の家老の家柄で、その祖先は出羽の戦国大名最上氏に行きつく家です。当時としては異例の城自体の守りではなく、海防の為の目的とする城郭の建設。そしてそれから黒船襲来以降、日本の各地の海岸に多数の海防目的の城や台場が建設されることになります。その意味ではその先鞭をなすことになる助川海防城でした。

 城までの完成は5年を要し、家臣団が在住する一大城下町となった助川村。しかし、折角完成したばかりの城は、20年後ほどあとの幕末の争乱で失われることとなりました。元治元年(1864)9月、天狗党の乱という水戸藩の壮絶な内戦で、助川海防城の山野辺氏は天狗党側に属した為に、追討の対象とされ、幕府・諸生党の攻撃に拠り、落城。焼失したのです。こうして、海防の為に設けられた城は内戦によってその機能を果さぬことなく、その使命を終えたのでした。

 

〇アクセス 

JR常磐線日立駅から徒歩約25分

 

「助川海防城に狼煙が一本…」