〇神社の門前町として栄える城跡

関東鉄道常総線で再び北上し、次なる目的地の大宝城へ。

最寄り駅の大宝駅に到着。駅は待合室のみある無人駅です。

駅から出てすぐ歩くと現在は民家が建ち並んでいますが、かつての大宝城の城域そのものです。画像右側には「大宝城」の標柱が建立されています。

大宝城はかつて大宝八幡宮の境内内が本丸でした。関東最古とされる八幡宮として現在でもかなりの門前町となっています。結構店とかもあり、繁忙期には結構な参拝客が訪れる由緒ある場所です。

この境内が本丸跡とされています。

境内内にはユニークな動物の石像や

馬の像があります。

境内の裏手こそ、大宝城の遺構が眠る場所

土塁

土塁

現在では竹林となっています。流石に裏手まで来る人は私のような城跡メグラーしかいないようで静かなものでした。

空堀跡

南朝関連の史跡とあってか

昭和6年(1931)5月建立の『贈正四位下妻政泰忠死之地』の碑

皇国史観全盛だった明治~昭和時代、南朝方の武将は徹底的に「美化」とされ、顕彰の対象とされてきました。当然のことながら最後まで抵抗を続け、大宝城に籠城した下妻政泰もその一人、立派な石碑が建立されています。

大宝城跡

横には謎のカエル像が…これは気になる

八幡宮のあった境内付近は周囲に比べると高台となっており、その下へ降りていくと虎口跡が残っていました。

かつてこの大宝城の北川には現在では消滅していますが、「大宝沼」と呼ばれる沼があり、城はそれに三方を囲まれ、高台に設けられたかなり堅固な城でした。更にすぐ近くに関城があり、同じく大宝沼の水運を通して相互に連携する形となったことでよりいっそう防御力の高い要衝となっていました。南朝方の北畠親房及び春日顕国がここを拠点に抵抗を続けたのも当然のことだったでしょう。

 

〇高師冬の苦闘

大宝城の歴史は古く、既に源平合戦時代である平安末期の応徳3年(1086)に大掾氏の一族に連なる下津間盛幹によって築かれました。鎌倉時代の貞永元年(1232)に小山氏の一族である下妻長政が大宝城を居城としていました。

この城が歴史のスポットに当たったのは南北朝時代のこと。

南朝方の北畠親房及び春日顕国らが再び東国における勢力挽回のために常陸を根拠地として抵抗を続けます。この時、春日顕国が擁立していた南朝方の象徴が興良親王。かつての護良親王の遺児であり、彼らは大宝城及び関城に籠城して、戦います。それに対して立ち塞がったのが

『逃げ上手の若君』でも残酷な形で再会となった吹雪こと高師冬でした。

従兄弟でもあり、養父の立場である足利家執事高師直から関東執事を任された師冬は先に述べた通り、関城・大宝城の要害に苦戦するも康永元年・興国3年(1342年)には両城の分断に成功。

遂に食糧不足に追い込まれた南朝方は不和が広がり始め、興国4・康永2年(1343)11月22日落城。城主下妻政康は討死し、大宝城の歴史は終わりを告げました。しかし師冬の苦闘はその後、続きやがて…それはまた別のお話

 

〇アクセス

関東鉄道常総線大宝駅から徒歩5分

 

「大宝城に狼煙が一本…」