『逃げ若』は大河ドラマ『太平記』を意識していているように思えてならない。今回の大楠公と後醍醐帝とのやり取りがかつての『太平記』と構成がよく似ているのですね。

後醍醐帝が持つ多くの人々を惹きつける魅力とそしてその長所を台無しにしてしまう欠点が露呈する

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『太平記』第3話で主人公である南北朝のラスボス足利尊氏が初めて一目見て一目惚れに近い形でゾッコンとなったように、後醍醐帝という帝王は多くの人々がその魅力で惹きつけるほどの稀代のカリスマ帝王でした。実際、多くの人が「この御方なら乱れ切った世の中を変えてくれる」という『期待』を集めるほどでした。実際、政務に取り組む後醍醐帝のビジョンは「逃げ若」でも描かれていた通り、決して的外れというわけではなく、非常に先見の明溢れる内容でもあったのです。本来なら敵対関係にある持明院統の花園上皇でさえ「君すでに聖主たり。臣また人多きか」と称賛するほどでありました。

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しかしこの帝の本質は多くの人々を失望させるものでしかありませんでした。それは自分勝手で己の事しか頭にないこと

自分が「一代限りの中継ぎ帝王」でしかない歪んだ境遇から「自分と自分の子供に帝位を受け継ぎたい」という己の私情丸出しで倒幕の陰謀を巡らせ、それが露見するや全てを臣下の者に押し付け、忠実に仕えていた腹心の側近でさえ見捨てる。あまつさえそれで責任逃れできなくなると判るや「逃げ上手の天皇」として徹底的に逃げ回って幕府に抵抗を続ける。もちろんその不撓不屈の力は紛れもなく、時代を動かしたと言えるでしょう。しかしそれは同時に天皇家の権威を失墜させる結果と日本全国を巻き込む不毛な大乱しかもたらしませんでした。なまじ優秀なだけに下手な暗君よりも始末が悪い。そして後醍醐に惹きつけられた多くの人々は彼の身代わりの如く、いずれも非業の最期を遂げることになりました。

この政治家としての優秀な見識と結果に対する無責任さで国を傾けてしまう落差は隋の煬帝を彷彿させます。

南北朝のラスボス足利尊氏は最終的にこの帝王の本質を見ずに終わりましたが、大楠公楠木正成は直に触れて失望してしまうことになります。それでは本編感想参ります。

 

〇軍記物語も匙を投げるレベル・多々良浜の戦い顛末

さあいよいよ大河『太平記』でカットされてしまった多々良浜の戦い開戦!!…と先週血が滾っていたのですが、今回見ての感想。

私「うん、これは大河でやらなくて正解だわ。だってこんな無茶苦茶な展開、大河では描けないわ。逃げ若のファンタジー要素が加わって初めて違和感なく見れるんだもの」

という具合の展開。九州まで落ち延びた足利軍は僅か500騎、一方建武政権派の菊地武敏率いる軍は数万が激突した多々良浜の戦い。それを『太平記』風に再現していく形で逃げ若で描かれます。既に九州における尊氏シンパの武将は殆ど壊滅させられてしまい、足利軍にとっては完全なアウェイ状態。そんな中で呑気に尊氏が本陣にいて、腹黒い弟の直義が前線で鬼神の如く奮戦します。実際には『太平記』では尊氏はまたしても死ぬ死ぬ詐欺を繰り出し、それに対して腹黒い弟が「上等!」とばかりに凄まじい奮戦をしたとあります。戦下手などとレッテルを張られている直義が大奮戦したのは諸史料一致しています。まずこれが重要な一点目。続いて突然砂嵐が菊池軍に襲い掛かり、菊池軍は大混乱に陥る。ここで判官殿の娘の魅摩の異能の力が発揮されます。しかし彼女またしても血の涙流しているけど大丈夫でしょうか…そして最後に南北朝のラスボス足利尊氏が悠々と出陣すると

 



もう逃げ若で何度も見てきた光景だからこそ違和感ありませんね。

南北朝のラスボスが出陣すると菊池軍の将兵の多くはまるで魔法にかかったように降伏するか、逃亡。かくして前後の脈絡が無さすぎる多々良浜の戦いは終結した…と『太平記』の記述そのままに逃げ若でも展開されます。

解説「文章だけ見ると数十倍の敵をなぜ正面から降せたのか説得力のある説明がどこにも無い。『太平記』ではこの不可解な勝利について「尊氏の前世の行いが良かったからだ」と

分析を完全に放棄している

うーん、最後の一文は完全に松井センセイのツッコミがそのまま出てしまっているように思えてならない(笑)ただこれは南北朝のラスボスの凄まじさの顕れでもあります。『太平記』は軍記物語です。

軍記物語は「分からない」ということは絶対書きません。

言うまでもなく軍記というのは多くの人々に流布させる物語として書かれたので、あやふやな内容では当然見向きもされません。当然のことながら、軍記作者は結果を知って描いているので、それに合わせた形で結果論の世界で非常に分かり易い答えを用意しています。有名なのが戦国ものだと小瀬甫庵が著した『信長記』『太閤記』が典型的な例です。例えば桶狭間合戦、これもまた何故少数の織田軍が大軍の今川軍に正面から攻撃して大勝利を収めたのか、良質史料の『信長公記』ではなかなか分かりにくい。それを甫庵は「愚将・今川義元は大軍故に驕り高ぶって油断していた」「そこを天才・信長が迂回奇襲によって見事な逆転勝利で成し遂げた」という実に分かり易い「答え」を用意し、それが多くの人々にも受けて有名となりました。この一例を示しても判る通り、甫庵の軍記本では「主人公」とも言うべき信長、秀吉らが取った行動は「勝つべくして勝つ」ために行動し、逆に彼らと敵対する立場の戦国武将は「負けるべくして負けた」という形で、彼らより劣る存在として描写されました。本来なら、多々良浜の戦いもセオリー通りにいけば「足利尊氏が勝つべくして勝った合理的な理由」が用意されている筈なのに

太平記の作者「うるせぇー!!んなこと言ったってこんなわけの分からない展開で、納得できる「理由」なんて作れるわけねーだろ!!」

軍記物語でも匙を投げるレベルで足利尊氏が無茶苦茶な存在

まあ解説すると、当時の菊地武敏率いる軍勢も戦意の低い寄せ集めの烏合の衆、しかも肝心の大将菊地武敏も「菊地家が九州で最初に挙兵したから」という理由で優遇されていて、他の九州の武将の多くがそんな建武政権の論功行賞に不満を抱いていたなどという内情がありました。ちなみにこの菊地を優遇すべきと説いたのは他ならぬ大楠公…うーん、なかなかに因果な巡り合わせですね。まあそんなわけで勝因は全くないというわけではないけど、どう考えてもアウェーの土地で圧倒的兵力差を覆す逆転勝利に導くには「無理がある」。そこへ今作でのオカルト的要素が加わることでようやく納得できる展開にできた…本当に凄まじいよ。

かくしてこの大逆転勝利をもって、九州で盛り返した足利軍は再び大軍をもって京へと攻め上ります。

 

〇大楠公・夢のオワリ

一度は最早壊滅的な敗北を喫して、西へ落ち延びた筈の足利尊氏が再び大軍を集めて西上との報に大パニックに陥る建武政権。この状況に後醍醐帝は楠木正成を招集します。頼りになるのは今はもう彼の軍略のみ。そう、他ならぬ後醍醐帝自身がそう考えていた筈…

大楠公の「策」は後醍醐帝に再び比叡山に逃げ、尊氏を京に誘い込む。元々足利軍は大軍故に兵糧の備えが十分ではない。更に消費都市である京を抱えた状況で、補給路を断てば弱体化したところを新田と楠木で挟撃する。これは現実的な状況を見据えた上での「これ以外にない」作戦です。実際にその後、南北朝時代の京はまさに同じ状況の繰り返し。周囲の公卿も軍神に対する賞賛で一杯となります。そこに


大楠公(坊門、てめぇ!)(# ゚Д゚)

ここまで大楠公が時行くんに預けた軍略書で散々蓄積されていたヘイト対象の坊門清忠、満を持して本人登場!!(一応、初期にもモブキャラで登場しています)このセリフは間違いなく漫画家が抱く怒りの一言。具体的な指摘がなく、単に却下したいだけの時に使われる台詞ということで、松井センセイの私憤も込められています(笑)表面上は笑いながら、内心の怒りで満載。まあだからと言って、落書きの軍略書で散々坊門に対する悪口を書き連ねる大楠公も大概大人げない(笑)とはいえ、ここで述べている内容は非常に如何にも「体面を重んずる」貴族の硬直具合を示すもの。2回も都から逃げては威信が地に落ちる。『太平記』では「先の大勝利は天が加護したもの」などといって無謀な正面迎撃論を主張するなどして、後世から凄まじいヘイトを浴びせられています。もっとも『太平記』も初期版ではこの場面で坊門は登場しておらず、実際には却下したのは後醍醐帝本人とみられています。その為にスケープゴートとして坊門が用意されたのが真相ではないでしょうか。ただ、いくら坊門が愚論を主張しようが、それによって後醍醐帝の責任が軽減されるわけではありません。


大楠公の進言を却下する決断を下したのは他ならぬ後醍醐帝。それは同時に大楠公に間接的に死ねというものでした。必死に訴える大楠公に対して

後醍醐帝「楠木よ、逃げぬという誇りと覚悟が人を強くする。汝も京の外で堂々と尊氏を討て!」

現実を見ず、ただ「威信にかかわる」という理由で出撃を強要する後醍醐帝。まさに『太平記』の

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この場面とまさに対をなすものですね!

大楠公(お言葉ながら帝は弱くなられました)

不可能と思われた鎌倉幕府が滅び、自らが何でもできるという万能感に酔いしれた後醍醐帝はいつしか変質してしまっていました。実際、元弘の乱以前と建武政権期以降の後醍醐帝では「本当に同一人物か?」と思ってしまうくらい、余りにもやることなすこと全てが裏目に出る判断力の衰え。逃げ若では「御簾の影に隠れた」キャラとして描かれたのはまさに「弱くなって」自らを大きく見せる虚栄心の顕れという深い考察の下でありました。

大楠公は走馬灯のように回想します。かつて笠置城へ帝が挙兵した時に馳せ参じた時のシーン。

大楠公「初めてお会いした時、幕府の追手から逃げ回っておられた時が…帝が一番強く恰好良うござりました」

初めて謁見した時、流石の楠木正成も緊張で((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル状態となっていました。しかし、そんな大楠公にも自由奔放に直接手を取って言葉をかける姿

 



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有名な肖像画の通りの顔立ちで目をキラキラさせて語り掛けるその姿は『太平記』第3話の尊氏が帝に初めて一目惚れするシーンを彷彿とさせるものでした。見込んだ人間には語り掛けられるその姿こそ、まさに後醍醐帝が多くの人間を惹きつける「魅力」そのもの。しかし、それだけに今変質してしまった帝の姿は余りにも無残な形で崩れ去ってしまいました。

大楠公「あの日見た夢は…褪せてしまった」

最後に大楠公は「遺言」の形で訴えかけます。

大楠公「古来より偉大な英雄ほど逃げ上手でした」

自らの髭も切ることで窮地を逃れた中国の英雄の「逃げ上手」を引き合いに出す大楠公

曹操「誰の事やろうなぁ…」

劉備「何を言う。ワシ以上の逃げ上手がいようか(ヤバくなったら、家臣も家族も見捨てる)あ、でもワシ、髭が凄い薄かったんだ(汗)」

孫権「張遼怖い!張遼怖い!」

大楠公の言う通り、最終的に生き延びた英雄ほど逃げ上手の人間ばかり。誇りや意地に囚われる人間に天下は取れない。そして去り際に


ああ、ここで時行くんという「弟子」のことを持ち出しますか!

僅かな京での出会いを通じて、互いに相通じるものがあった大楠公と時行くん。その後、彼らは二度と再会することはありません。しかし、その生存をどこか確信しているからこそ持ち出した少年の事を帝に述べること。間違いなく、この後の伏線となる筈です。

 

〇逃げ上手の継承者は…

有名な櫻井宿の別れ。死出の戦いに赴く覚悟も、自らの息子達には生き延びさせるために従軍を拒否する大楠公。最後のお願いとして、彼らは父親から元服名を賜るように懇願します。いつか宿敵となった南北朝のラスボスを殺すために、と強く主張する長男多聞丸と次男。その血の気の多さは大楠公にとっては気がかりで、何とかして「命大事」する名はないものか…と思案します。そして用意したのは

誕生!楠木正成長男正行(まさつら)、次男正時(まさとき)!

わざわざ行(ゆき)と呼ぶのが一般なのに行(つら)という読み方を用意する父親に怪訝な顔をする正行。行(ゆき)だと露骨すぎてバレるから…と何故か言葉を濁す大楠公。


ああ、この発想はなかなか凄い!

史実上では接点がない北条時行くんと大楠公楠木正成。彼らの接点として松井センセイが着目したのが大楠公の2人の息子の名前。もちろんこれはフィクションなんだけど、こうして確定された史実だけでなく、こういう着眼点の下でフィクションに史実を加味してしまう松井センセイの発想力は本当に凄いよ!

ただ惜しい!非常に惜しい!!!

大楠公、そして時行くんの逃げ上手を受け継ぐ役割を担うのはここでは登場しない三男坊の儀(のり)。ああ、せめて次男の正時がこの役割を果たしていたら…これは芸術的だったのに残念。