〇千葉の勝浦にある断崖絶壁の公園
千葉県南部の太平洋沿岸には勝浦という町があります。和歌山県にも紀伊勝浦がありますが、いずれも海岸の絶景の町。ただこちらには勝浦城と言われる城跡があります。今回はそんな勝浦城の城巡りからお届けしましょう。
安房鴨川駅から到着
ここは内房線と外房線のそれぞれの終点駅。東京湾沿いを走っていた内房線から太平洋の沿岸を走る外房線へ。
かつてはここで列車は完全に分断されており、内房線と外房線それぞれの列車の終着駅であり、必ずここで乗り換えが発生していましたが、最近では再び直通運転が日中なされるようになりました。
それではそのまま走っていきましょう。
途中にある特急わかしお車両
内房線は東京湾アクアラインの開通によって、高速バスに長距離客が流れてしまい、今では殆ど特急が走らなくなりましたが、外房線は幸いまだ需要があり、今も特急わかしおが走っています。
車窓から見る太平洋沿岸
勝浦駅に到着しました。
駅を降りるとすぐに潮風の匂いとともに、古くから漁港の町として栄えてきた勝浦の町にはあちこちに海鮮料理や土産物屋がありました。
目的地の勝浦城までは駅から歩いて25分ほど。ちょっと距離がありますが、ここからは漁港としての景色があるのでそれを楽しみながら進んでいきます。
漁港を過ぎると見えてきました。流石に25分の徒歩行軍は少し辛いものがありましたが
無事到着!もうここは既にかつてあった勝浦城の三ノ丸跡があった場所です。春先の休日とあって非常に多くの人で賑わっていました。
もう既に古びてしまっている案内板ですが、ここは勝浦市の観光スポットともなっていた証でもあります。見た目は普通の公園と変わりませんが…
二の丸跡は現在では遊具などを兼ね備えた公園と化しています。
そして八幡岬の先端部分の平場となった場所がかつての本丸跡です。
その先にある女性の像がお万の方の像。ここの城主である正木氏の娘であり、後に天下人徳川家康の側室となって、紀州・水戸の御三家の生母となった女性です。流石にここだけは非常に立派で風格あるものとなっていました。
今となっては流石に遺構を見つけるのは難しいのですが
30メートルはある断崖絶壁の迫力は健在でした。
かつてはこの岬の先端部からお万の方は落城の時にこの断崖から白布を垂らして、脱出したという伝説があります。
もちろん危ないから決して先端部までは行くのは控えましょう。
時間がある時はあの灯台のある方から見てみるとこの城が恐ろしいぐらい断崖絶壁の城であることが分かります。
本丸跡を一望して
太平洋の荒波を見ながら
二の丸跡
その高所にあるのが八幡神社です。
勝浦の漁港
漁港として栄え、今でも海鮮料理などの店が出店していますので、食事するにはうってつけです。
さて、勝浦城は残念ながら城としての遺構はそんなに残っていませんでした。元よりこの城は多数の兵が常駐できるだけの広さが無く、岬の根本にある台地に居住し、城は有事の際に立て籠るための機能だけ持たされているように見てます。この城の価値はやはり船が停泊できる機能を重視した水軍の城と言った方がいいでしょう。
〇三浦氏の末裔から徳川の血脈へ
勝浦城の城主は安房の戦国大名里見氏の重臣である正木氏の城でした。正木氏はかつて源平合戦の頃から活躍した三浦氏の末裔とも言われ、その血筋を辿ると悪質御家人・三浦義村へも辿る系図となります。まあそれが本当かどうかはさておき…正木氏は里見水軍を率いる大将であり、その房総半島戦国史では何度か登場する城です。正木氏は水軍大将として、この勝浦城から軍船を出して、遠く下総香取地方まで遠征したと史料では伝わりました。その後、関東で勢力を伸ばしている後北条氏が房総半島まで勢力を拡大すると正木氏も後北条氏に寝返り、里見氏が今度はこの城を攻め落としたとも伝わります。
一般的にはお万の方が「お万布晒し」と言われる脱出劇を行ったのは天正18年とも天正5年ともいわれるが定かではありません。勝浦城自体が廃城となったのは天正18年の小田原征伐であったとされます。
その後、お万の方は天下人徳川家康の側室となり、2人の男子を出産します。これが紀州徳川家徳川頼宣と水戸徳川家徳川頼房。彼らの兄弟である二代将軍秀忠、尾張徳川家義直の系譜は男系が途中で途絶し最終的に血脈が遺ったのは次男結城秀康の系統のみ。紀州家と水戸家の養子が跡を継いでいることから幕末の徳川家はほぼお万の方の子孫と言えるでしょう。
〇アクセス
JR外房線勝浦駅から徒歩25分で入口
「勝浦城に狼煙が一本…」