2021年の年始を大河ドラマ『麒麟がくる』の放送終盤を記念して、巡ろう!などと考えていた私。岐阜周囲~名古屋にかけては折角だから名古屋鉄道の乗り潰しで行こうと思った次第なのですが、困ったことが一つ。JRなら青春18きっぷ、それ以外にも地域限定でのフリー切符があるのですが、名鉄にはそれが余りなくて困った!2日とか3日という複数日ならあるのですが、これもかなりの割高。そんななかで年末年始限定のフリー切符が発売されていて苦心して購入。ということで、まずは1日目は関ケ原から西高木家陣屋~京極氏館と終わり、岐阜市郊外の「宿」で一泊

次の日の朝一番の普通列車に乗車。おり悪くこの日の岐阜市内はかなりの大雪。果たして目的地は大丈夫か?

新可児駅にて御嵩方面へと乗り換え

ここまで名鉄広見線は犬山や岐阜まで通勤路線として電車でしたが、ここから御嵩は気動車が走るローカル線となります。

終点の御嵩駅まで到着

ここから一旦引き返し、

途中駅の顔戸駅にて下車。ホームと小さなベンチだけがある無人駅

ここから北の方へと歩いていきます。

可児川を渡ってすぐのところ、

顔戸橋を渡り、少し高台の所に顔戸城はあります。

顔戸城は御嵩町中南部の河岸段丘状の丘の上に築かれた平城

かつての入口付近の跡には石碑が置かれて、かつての城の歴史や縄張り図があります。

この入口付近から居館のある主郭付近までの登坂には深い土塁と空堀が残っていました。

雪でどうなるか不安でしたが、幸いこの辺りは雪がうっすらと雪化粧されるのみで、ちゃんと地面が見える状態でした。

それにしてもこの空堀はなかなか深く城があった当時の面影をの固定します。

上へと上がっていくと

かつて館があった主郭跡は今は田園と民家が建ち並ぶ静かな一帯となっていました。

土塁

各地に残る堀跡はかなり深く、やはり周囲の遺構の方が残りは良さそうです。

この御嵩町一帯はかつて明智荘と呼ばれ、明智光秀の生誕地の一番最有力候補と言われます。

それではいよいよ明智の「本命」へと向かいます。

 

〇応仁期に活躍した美濃守護代・斎藤妙椿

顔戸城の城主であった斎藤妙椿は元々は善恵寺(現:八百津町)で修行する僧侶でしたが、兄である美濃守護代であった斎藤利永が長禄4年(1460)に死去したことから還俗し、斎藤氏当主となります。応仁の乱においては「妙椿の動向は土岐氏のみならず、中央の政界をゆるがす」と言われるほどの重要な存在となりました。実際に応仁の乱で西軍に属した守護大名の土岐氏と斎藤氏に対して、東軍は比叡山の僧兵まで動員して備えるほどでありました。

 そして東軍側信濃の小笠原家長らが攻勢をかけて、恵那・土岐郡へと侵入した為に、これに対する備えとして顔戸城は信濃からの侵攻に備える前線基地として強化されたと考えられます。顔戸城は東・西・北を深い空堀と土塁で囲まれ、南は可児川を天然の水堀とすることで守りを固めた平城であったのです。妙椿はその後も足利義視を庇護する等、その後の室町時代の歴史にも大きな影響を与えました。

 やがて時は流れ、斎藤氏はいつしか衰退し、家臣の長井氏が頭角を現し、やがてこれに取って代わられる下剋上となったのでした。そしてこの長井氏に乗っ取られた斎藤氏が後の「美濃のマムシ」斎藤道三へと至るのでした。

 

〇アクセス


名鉄広見線顔戸駅から徒歩10分

 

「顔戸城に狼煙が一本…」