〇岐阜県西部にもあった明智光秀生誕地?

前半生が謎だらけの戦国武将・明智光秀。確定的な情報としては美濃が出身地であることぐらいなんですが、その美濃のどこかすら確定していない。必然的に岐阜県の各地には「我が土地こそ明智光秀の生誕地!」と名乗りを上げている状況ですが、そんな中で実は岐阜県西部にもそんな「生誕地」候補?があるのはご存知でしょうか。

岐阜県大垣市南西部にある上石津多良地区。ここは滋賀県(近江)とも三重県(伊勢)との県境にも近い所に位置します。ここにかつて関ケ原合戦時に「多羅城」と呼ばれる城がありました。当時は関氏が城主でしたが、それ以前から「多羅城」と呼ばれる城があったとされています。そして光秀についていうと江戸時代に作られた「明智系図」によれば「光秀は多羅城出生」という記述に着目して、光秀は実はこの一帯が出身地だったのではないか…とされています。もっともこの「多羅城」、そもそも正確な位置が分からず、大まかな推測で出てきたのが今回ご紹介する西高木家陣屋跡。

とはいえ、そもそも大元の情報源がかなりあやふやなので、話半分でお聞きください

ここを訪問したのは2021年初頭。丁度大河ドラマ「麒麟がくる」が佳境を迎える頃でした。大河ドラマ効果で、岐阜県各地では明智光秀顕彰一色。そんな時期だからこそ、そのムードを味わいたかったのも動機の一つです。

 

ただし、この上石津地区。かなり訪問しにくい場所です。所属自治体は大垣市なのですが、大垣の中心部からバスで1時間かけての距離。どっちかというと関ケ原町の方が近い。しかしここからのバスは今はもうありません。しかも例によって例のごとくバスの本数は少なく、ここの訪問だけで1日が終わってしまいそう。そこで私が考え付いたのが

距離的に近い関ケ原からレンタサイクルで12キロを走ろう!

というものでした。実際、こっちの方が遥かに近いし、電動自転車なら12キロくらいはいけそう。ということで寒風吹き荒ぶ中での自転車旅になりました。

関西からJR東海道線で一路東へ。滋賀県と岐阜県、ちょうど東西日本の境界である関ケ原の地と伊吹山の景色が見えて参りました。既に山の方は雪で白くなっていますが、まだ幸い平野部は大丈夫

JR関ケ原駅にて下車。ここも2024年春には無人化されてしまいます。

レンタサイクルは関ケ原駅前の観光案内所。当然ながら9時~17時までであり、それまでに返却しないといけません。1日料金で2000円(※2024年現在は2310円)かなりの割高ですが、電動自転車だからこそこの長距離旅は有効なので、絶対必須。

関ケ原からまっすぐ南の方へと下っていき、上石津けんこうふれあいパークで右折。なお、このルートかの関ケ原合戦時の

「島津の退き口」での島津義弘の退却ルート

にもあたる道であり、その意味でも歴史的に重要な道です。

幸い上石津多良地区まではまっすぐな平地が続いており、おまけにトンネルも通れるので早い早い。

電動自転車なので45分ほどで到着

この一帯には数多くの史跡があり、また島津軍の島津豊久(島津義弘の甥)の墓が残っています。豊久は叔父の退却を助けるべく、この地で殿としてとどまり戦死したと言われています、

地域は人気の少ない閑散としていました。目的地の西高木陣屋を探し、

「宮」バス停、ここが最寄りのバス停となります。そして目的地はこの奥です。既に早速石垣が遺された古い地区。

陣屋とは思えないくらいの立派な石垣が残されていました。↑は埋門跡の石垣です。

非常に立派な石垣で、ちょうど段丘状の地形を丸々覆う形で石垣が積まれていました。

坂道を登って行けば、目的地です。この石垣の石材は養老山系から産出される硬質砂岩で、近くを流れる牧田川より採取されて運ばれたと考えられています。

西高木家陣屋の重要な現存建物である長屋門

この長屋門は嘉永5年(1852)造営されたものです。

この辺り一帯がかつての西高木家陣屋の上屋敷が置かれた場所です。

そしてここからだとこの辺り一帯はくまなく見渡せ、まさしく支配の拠点としては打ってつけですね。

下屋敷跡は現在は駐車場となっていました。

上屋敷の背後には

恐らくは土塁状の土の高まりが残されています。

その奥には西高木家の墓所がありました。ここは古い歴史を感じさせる遺構がふんだんに残されています。

一番ありがたいのはやはりきちんと資料館も建てられている点ですね。

ここ上石津郷土資料館には高木家の遺された資料などの解説や郷土史、さらに件の明智光秀生誕説の大まかな概要まで詳しく書かれていました。

ここで展示物の見学と雪が無いとはいえ、寒くなった身体を暖めて休憩代わりとします。

 

麓まで残る石垣

更に麓の方には実は「西高木家」の他にも「東高木家」「北高木家」の陣屋がおかれていました。高木家はこの3家が江戸時代にそれぞれ交代でこの地を支配していたのです。ただし、段丘の上にある西高木家が2300石、他の2家がそれぞれ1000石で、やはり西高木家が一番格式が高かったようです。

なお、西高木家とは対照的に東と北の陣屋は残されていません。共に火災で焼失しており、現状遺構として残っているのは

東高木家陣屋はこの土蔵と周囲の石垣のみ

北高木家陣屋跡は石垣のみです。

 

それにしてもこれほど立派な石垣が一介の旗本の陣屋に築かれていたのものなかなかは見られない壮観な景色

昔の伊勢街道に面した石垣は今も健在で、往時を偲ばせてくれます。

旗本陣屋としては大名のそれに匹敵する立派な石垣、そして現存する屋敷や門、そして資料館などの史跡としての充実度。アクセスの難易度は高いですが、この西高木家陣屋は訪問しておいて損はありません。ここがもしかしたら「多羅城」であった可能性は確かに否定できないな…と思いました。

 

〇戦国から地元に土着する旗本たちの家

高木家は戦国時代に美濃西部の駒野・今尾周辺に勢力を持った土豪の家で、その後関東に移り住みましたが、関ケ原合戦での軍功により、慶長6年(1601)美濃国石津郡の時・多良郷に入り、この地に3家に分かれて陣屋を構えたのが最初です。3家併せて4300石の旗本として、大名並みの格式を許され、この地を統治していました。高木家は寛永年間以降は「川通御用」の勤務を務め、美濃を中心とした治水に関わる役儀を背負っていたことからも重要な存在であったことが分かります。有名な宝暦治水、かつてこの地を退却路にした島津家が普請に関わったこの治水においても重要な役割を担いました。

 高木家に関わる古文書は実に10万点以上残されており、特に領域支配や地方の旗本の実態を示す重要な史料となっています。

 

〇アクセス

JR東海道本線関ケ原駅前の観光交流案内所でレンタサイクル45分で陣屋跡

・上石津郷土歴史資料館

開館時間 9:00~17:00(入館16:30迄)

入館料  100円

休館日  毎週火曜日・祝日翌日・年末年始(12月29日~1月3日)

 

「西高木家陣屋に狼煙が一本…」