image

 

〇明知鉄道の新駅

明智町で散策を終え、再び明知鉄道に乗車して恵那方面へ。明知鉄道沿線は美濃東部にあたり、この地域は戦国時代には
織田 VS 武田
の勢力圏の緩衝地帯に当たっていました。そのため、両勢力が武力衝突に当たるとこの一帯は両勢力の草刈り場と化し、各地の城は凄まじい争奪戦が繰り広げられます。明知鉄道沿線はまさにその舞台、日本100名城にも指定された岩村城も明知城も、更にその他多くの付随する城もまた両軍の激しい戦いの舞台となったのでした。

 

明知鉄道にて途中の極楽駅にて下車

 

この極楽駅は2008年に新たに設置された新駅。近くにできたスーパー店が設置費用の半額を寄付したことで誕生しました。

「極楽駅」というその縁起のいい名称から記念切符として縁起を担いだ切符やそれらしい像が置かれています。

近くにあるスーパー「バロー」この店が出来たおかげで誕生しました。

駅自体は何の変哲もないホームと待合室だけの無人駅ですが、

この駅が出来たおかげで今回の城も訪問しやすくなりました。

延々と続く田園地帯を歩いていくこと25分ほど、周囲には何もないので駅前の先ほどのスーパーで調達しておきたいところです。

丁度道路の交差点付近にあるちょっとした小山が飯羽間城。分かり易さという点ではこの城、結構いいです(笑)

 

ただし、小高い山程度ですが、周囲は急峻な地形と切岸となっており、頂上の本丸まで登るのは一本しかない登城路のみ。ところがそれがないのでちょっと焦りました。

最終的にそれっぽい入口があったので進入するのですが・・・

入口付近はかなりの藪や倒木、枝などが散乱していて歩きにくい

それでも少しずつ登っていくと段々と道が鮮明になってきました。

手書きの案内板で書かれたこの表示が間違いなくここがかつての城跡であったと物語ってくれます。

主郭虎口跡

ようやく頂上付近!これが本丸…?なのか。いや、多分合っているんだけど如何せん笹薮が酷すぎて、何もわからない状態となっています。

それでもこの手書き案内板のおかげで間違いなく本丸跡だと分かります。

 

 

主郭付近にあるのは「萬霊塔」

城を守って戦った武士達を弔うために建立され慰霊碑です

竹藪がかなり生い茂っていて、なかなか遺構を観察しにくいのがちょっと残念な点でしょうか。最近見たページだと結構この辺改善されているそうな。この近くには「信の城」と呼ばれる城もあり、この地域には小高い山の各地に城が築かれていました。まさに激しい攻防戦を物語るかのように…
 
〇武田と織田の狭間で
かつて鎌倉幕府の旗揚げの頃から活躍していた加藤景廉がその功績を賞されて、源頼朝から与えられた荘園のうちの一つが美濃東部の遠山荘であり、彼の長男景朝がこの地に根付いて遠山氏となって以降、美濃東部において遠山氏は大きな勢力を誇り、更にその子孫は遠山荘各地に分かれ、分家となっていきます。その一つがここ飯羽間城を城主とする飯羽間遠山氏でした。この飯羽間遠山氏はその後は室町時代には将軍直属の奉公衆にも名を連ねるほどでした。
 織田と武田の攻防が本格化する元亀年間の頃の城主は遠山友勝と友忠親子で、友忠の妻は信長の姪と言われるなど織田に近い存在でした。やがて元亀三年(1572)に岩村城主の遠山景仁が没すると、信長はこの機を逃さずに岩村・苗木城を掌握。彼に近い飯羽間遠山氏の一門をそれぞれの城主に据えるなどして、一大勢力となりました。その後、友忠は苗木城主となり、武田の勢力への調略を一任されます。有名な武田家滅亡のキッカケとなった木曽義昌の寝返りも彼が交渉したことにありました。その後、友忠は一時苗木を失うものの江戸時代には再び苗木の大名として復活、明治まで続く苗木藩の誕生となりました。
 さて飯羽間城には友忠の長子である智信が継承しますが、天正2年(1574)武田勝頼の美濃への攻勢の時、明知城へ籠城。城内で謀反を起こし、落城に導きました(『信長公記』より)しかし武田方の記録である『甲陽軍鑑』では友信は飯羽間城に籠って、武田方に最後まで抵抗を続けた末に落城して、連行されたと記録されており、この辺で真っ二つの評価がなされています。その後、友信は甲斐に残ります。これが武田に味方しての転属なのか、それとも捕虜として抑留されたのかは定かではありませんが、武田家滅亡の際に織田方によって討ち取られるという最期を遂げました。父と子で全く異なった道を辿った飯羽間遠山氏。あるいはそれは生き残りのための保険であったかもしれません。
 

〇アクセス

明知鉄道極楽駅から徒歩25分

 

「飯羽間城に狼煙が一本…」