2023年も残すところあと1日になりました。これまでブログをご愛読いただいた皆様に感謝申し上げます。さて今年最後の締めくくりとなる記事をどれにしようかと思いましたが、今回特別チョイスで逃げ若アニメ記念で

北条時行くんの関する史跡をご紹介します。

2021年に少年ジャンプで彼を主人公とする漫画が連載されると聞いた時には、完全に無名に等しい人物で果たしてどれだけ連載できるのか?と不安だったのですが、そこは松井センセイの歴史に対するシャープで鋭い観察力と僅かな史実と松井ワールドを融合させた見事な世界で大成功し、遂に歴史上初の南北朝時代を舞台にしたアニメが誕生することになりました。さてそんな中においてモデルとなった北条時行くんについての史跡を巡りたいと思ったのですが、

時行くんに関する史跡って殆ど無い

のがネックになっていました。北条時行くんが登場するのは逃げ若でも言及されている通り、中先代の乱に旗頭に据えた彼を主役にした大乱の数か月のみ。それ以外には断片的な事績と推測が残るのみです。必然的に彼を偲ぶ明確な史跡と言えば…少ない。今回ご紹介する史跡はそんな彼を偲ぶ貴重な史跡です。

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大徳王寺城

逃げ若でも宿敵にして、良き師弟としても描かれる時行くんと並んで『逃げ若』で一躍知名度を上げた小笠原貞宗。史実でも何回か対戦したであろう侍王子と信濃守護が激突した城です。ただし、その場所は長く分かっておらず、僅かな史料の記述から類推され、「この地にあったのではないか?」とようやく推測される程の謎の城。まさに北条時行くんに関する史跡にして、打ってつけの城です。

 

〇時行くんVS小笠原貞宗

暦応三年(1340)6月、南朝方の武将となっていた北条時行くんは信濃国伊那郡大徳王寺城に籠城します。この前年には北畠顕家の上洛戦に同道し、その後伊勢からの船出の後行方不明となっていた時行くんが久しぶりに歴史の表舞台に登場した瞬間でした。これに対し、府中(現・松本市)にいた北朝方の足利の将にして信濃守護・小笠原貞宗はただちに攻撃を開始。7月に大手門で合戦が開始されます。

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この時、時行くんの下にはかつて彼を庇護した諏訪頼重さんの孫である

クソガ…ゲフンゲフン諏訪頼継

がかつての祖父が味方した縁から援軍として共に籠城したと記録に残っています。しかし、4か月にわたる籠城戦の末に城は10月23日陥落。時行くんはどこともなく落ち延び、この後10年間は殆ど記録に残っていません。一方の諏訪頼継は諏訪へ帰還し、多数の戦死者の菩提を弔ったと言われます。大徳王寺城を占領した小笠原貞宗は孫の氏長を近くの下ノ城城主と据えて、その系統は溝口氏と名乗り、この地を治めたと言われます

 

以上の経過を伝える史料はただ一つ。『守矢貞実手記』と呼ばれるこの戦いから数十年後に書き記された記述を逃げ若風味に解説してみました。しかし如何せん史料の限界から果たしてどこまで信頼できるかとの疑問があります。そして長らくその詳細な位置が分からなかった大徳王寺城ですが、記述にある「敵は彼の城の西尾に要害を備え…」という記述から地形的に合致するのが現在の長野県伊那市長谷村の場所でした。もちろん確実にここである保証はありませんが…

 

〇侍王子の痕跡を求めて…

2023年12月、そろそろ信濃にも雪が降り出そうというこの時期に長野県伊那市を訪問。流石にかなりの寒い時期となりましたが、伊那のこの地域はまだ雪がありませんでした。問題の長谷村の辺りは公共交通機関でのアクセスは事実上不可能。伊那市内でレンタカーを借りての訪問となります。日本100名城で有名な桜の名所である高遠城から更に南の方へ。三峰川と呼ばれる川に沿って車を走らせます。大徳王寺城はもちろん無名の城であり、観光案内も何もありません。グーグルマップでのナビに従い、進みます。

やがて長谷支所の場所から山の方へ上がっていくと遂に見えてきました!大徳王寺城の案内板が!

しかし、ここから難題が…駐車しようにもなかなかそれらしい場所が見当たらず、狭い車道を右往左往することに。

仕方なく一度麓まで降りて、神社の駐車場をお借りして、歩いて15分ほどもう一度先の場所を訪れました。

案内板の方を進むと

分岐の奥の方に大徳王寺城の推定比定地があります。

大徳王寺城推定比定地から見た光景。現在では美和湖と呼ばれる三峰川を堰き止めた人造ダム湖となっており、かつての長谷村の多くはダムに沈みました。かつて時行くんらがいたころはこの川が大徳王寺城の天然の堀の役割を果たしていたと考えられています。

その対岸の山々に小笠原貞宗ら足利方の軍勢が多数の陣城を構築していたと考えられています。

 

ありました!ありました!大徳王寺城の案内板と石碑発見。最近設置されたと思しき、真新しい案内板で詳細な歴史が解説されています。これも逃げ若効果でしょうか?

地元の案内板にも「幻の城」と記載されるほど長らく知られていなかった大徳王寺城。現在では地形から類推された大徳王寺城及び貞宗の陣城が記載されています

もちろん遺構として確定的ではありませんが、かつての侍王子たちの奮闘を心眼で目に焼き付けて

城跡と推定される地を回っていきます。

城跡の石碑の背後には急峻な地形となっており、

これらが堀切の役割を果たしていたと推測されます。そしてその堀切を超えた先にあるのは

宗良親王の墓所

宗良親王は後醍醐天皇の皇子の一人。帝は強大なるかつての寵臣にして今や宿敵と化した南北朝のラスボス・足利尊氏が強大化していくのに対して、日本全国に自らの皇子を派遣し、各地の南朝方を糾合して対抗しようとしていました。このうち、宗良親王はいわば信濃方面へと派遣された皇子です。

彼はその後、遠江北部の井伊谷において地元の国衆である井伊氏の庇護下に置かれ、軍事活動を開始します。時行くんらが大徳王寺城に籠城したのも井伊谷~伊那へ信濃へ入ろうとする親王を迎えようという意図があったと案内板にありました。それによれば、この地は南下していくとまさに井伊谷へと入る街道に位置していたそうです。なお、宗良親王の墓ですが、これも長らく知られておらず、近代の調査で判明したそうです。

背後の御山へと至る道は険しく

まさしく天然の要害を形成されていました。

かつてダム湖に沈む前の長谷村溝口

 

長らく勝者の足利の影で隠れ、歴史的表舞台に当たらなかった人々…しかしそれでもこうして彼らの痕跡が遺されていたことはありがたい限り。北条時行くんの過酷な戦いはもちろん逃げ若でもこれから続きます。大徳王寺城もまた登場してくれるといいですね!

 

〇アクセス

高遠城から車で約20分

 

「大徳王寺城に狼煙が一本…」