実は2回目にパートナーと映画鑑賞に行った時…最初に何故気づかなかったのかと自分の見落としを天に呪いたい。

あれ?第4部は劇場で普通にブルーレイ発売してんの?

第3部はBD発売が遅くずれ込んだのに、第4部はいきなりの劇場版限定BD発売。ちょっとチグハグすぎやしませんか。もっとも普通のBDと比較しても3千円も積み増し。最初この3千円分がどいういう上乗せなのかさっぱりわからなかったのですね。特に特典の資料があるわけでもない。その疑問は開封して氷解しました。

劇場版限定には映画版とセル版二つのディスクが入っていました。

セル版はもちろん1話ごとのOP・EDが入っている仕様で、オーディオコメンタリーやら色々な特典が入った正規のセル版。一方の映画版は文字通り4話を全部くっつけた仕様で、テロップも劇場版仕様。ということで今回からはようやく細かい台詞の後追いや描写についての正確なチェックが可能になりました。第3部の時には映画見ている時に気づいたこと全部メモ書きしていたのが遠い未来のようです。

 さて第2話目となる38話ですが、結果的に言うと今回一番の大満足回になりました。もちろんMVPは

ルパート・ケッセルリンクとアドリアン・ルビンスキー

今回は作画も非常に気合が入っており、会話の内容ごとに変わる2人の細かい心理描写が良い塩梅となっていました。思うのですが、やはりフェザーンパートに関しては「ノイエ版の方が優遇されているんじゃない?」というぐらいの充実ぶり。特にルパートは演じる野島健児さんの声質から非常にナルシスト感が出ていて好き。それでいて、ルビンスキーに対する屈折した心理表現が出ていました。今回はあれですね、声優さんと作画双方が噛み合っての非常に充実した描写、これ思い出したのが

オットーさんとアンスバッハ主従の最後の会話

と同じくらいの「誰得?満載」だったのが好き。それでは本編感想参ります。なお、今回も厳しめの内容でお送りします。

 

〇感想の前に:同盟にみる「民主国家の限界」

まずはオープニング曲無しでのフェザーンにおける自治領主ルビンスキーに対する帝国・同盟・フェザーンの「変化」を報告する補佐官のルパート・ケッセルリンク。これまで1世紀近くの三国の微妙な勢力均衡で成り立っていた国力比が遂に変動してきたこと。もちろんこの国力比はフェザーンが勢力均衡を成り立たせるために努力してきた数字でもあります。

帝国48:同盟40:フェザーン12

仮にフェザーンがどちらか一方と手を結んだとしても残る一方を圧倒できるほどではない微妙な国力比。もちろんフェザーンにとって最悪なのは帝国と同盟が手を結んだ場合ですので、両国の警戒心を買わないよう腐心してきた結果でもあります。それがとうとうこの宇宙暦798年に遂に変動しました。なお、この国力比の変化、実は原作と石黒版では微妙に異なります。ノイエ版は今回前者を取りました。

原作・ノイエ版 帝国48:同盟33:フェザーン19

石黒版     帝国54:同盟30:フェザーン16

個人的に言うとこれは石黒版の方が納得できる数値です。原作・ノイエ版だと「いやこれフェザーンが勢力伸長しただけやん」と思ってしまう。「帝国は人材登用が進み、社会経済が活性化し、成長著しい」というセリフにも説得力が増す。逆に同盟の弱体化ぶりが更に悲惨なものとなっている。その意味ではノイエ版もここは石黒版を踏襲して欲しかったのが正直な所です。まあいずれにせよ、言及されている通りの同盟の「詰みゲー」っぷり。帝国領侵攻作戦などという近視眼的な軍事遠征とその愚行の結果としてのアムリッツァの大敗での軍事力の激減。本来は2年前、イゼルローン要塞を奪取した時点でのレベロやホワンが主張したように「民力休養」での経済再建を優先すべきであったのに、逆に自ら墓穴を掘ってしまった同盟。失った軍事力の再建のためには更に軍事費に予算を振り向かざるを得ない。原作にもある通り、

「長引く戦争は軍隊を支える社会の弱体化を招く。そしてそれは結果として軍隊の弱体化を招く。そして弱体化した軍隊はその穴埋めを社会に求め、更に社会は弱体化する」

という悪循環。銀英伝はこういう容赦ない現実を見事に描いているから好き。帝国との戦争が続く限り、本来なら民生に注ぐべき予算が軍事に回され

ルパート・ケッセルリンク「社会インフラのトラブルも相次ぎ、市民の体制への信頼は揺らいでいます」

とあるように経済社会が疲弊し、市民の国家への信頼も失われつつある。原作ではこれに加えて、「消費物資の圧迫によって生産量は減少、質の低下、価格の上昇」…うん、なんか聞いたとあるような気がするが、多分気のせい。いずれにせよ、国家として行き詰りつつある同盟の現状を一言でまとめるルビンスキー。

ルビンスキー「同盟は破滅へと向かっている…悲惨だな」

本来なら事態打開のためには軍事費を削減するほかない筈なのですが、それには帝国との戦争を終わらせる必要がある。勿論そのためには帝国との和平に道を求める他ないのですが、ここまで同盟政府自身が煽ってきたように「暗黒の専制国家を打倒し、宇宙に民主主義を回復する」というイデオロギーに縛られている限り、それもあり得ない。結果、更に軍事に国力を費やすしかない現実を皮相的に見るルビンスキーなのでした。

実のところ、第32話でトリューニヒト政権による同盟が民主国家から統制国家へと変質しつつある現状が描かれていました。政府批判を繰り広げていたエドワーズ委員会に対する有形無形での圧力とマスゴミによる情報統制…これらは単にヨブちゃん個人が独裁者になるための権力獲得というよりは

ヨブ・トリューニヒト「そうでもしないと同盟は国家としてやっていけねーよ!!」

というのが見え隠れします。市民の不満をそらすために「隣接する非民主国家の軍事的脅威」を過度に煽り、その一方で政府に対する批判意見を抑えることで国家の維持を図らなければならず、結果自らが振り上げた「『悪の専制国家との正義の聖戦』に妥協はありえない。『悪の専制国家』は我々にどんな悪行をするか分からんのだ。だから最後まで聖戦貫徹!」という考えに縛られ続ける。なんかこのフレーズどっかで聞いたことがあるのですが、多分これも気のせい。

 

これらが教えてくれるのは残酷な現実です。それは私の「師」からの教示内容でもあるのですが、

「経済的繁栄は民主共和制に必ずしも依存しないが、逆に民主共和制は経済的繁栄が欠けている場合に危機に陥る」

経済的繁栄というのはそれ自体は国家の「政治」が「善政」か「悪政」かどうかであって、「民主主義があるか」は関係ない。ところが「民主政治」は経済で行き詰まると途端にその弱点が浮き彫りになる。「過激な極右論者(銀英伝でいえば憂国騎士団)の伸長、マスゴミによる情報統制、そして政府批判論者に対する様々な形でのバッシング(エドワーズ委員会事件)…」民主国家においては残念ながら様々な形での「弾圧」は行われるということです(『帝国』みたいに問答無用で殺されないだけマシ?ってか)その現実から目を背けては、「同盟市民」たちと同じ視点しか持ちえないでしょう。現実には民主主義の精神から程遠い全体主義国家が経済的には成長しつつあり、一方では経済的に行き詰りつつある果たして現代の「同盟」陣営にいる人々は後世から見て「賢明」に対処できるのか、ちょっと皮相的に観察しています。

 

なんかすみません、ちょっと色々と生々しい話をしました。銀英伝もまたフィクションですし、現実に比べて色々「理想化」されている部分もありますが、その一方で怖いくらいこの「現代」を見据えたのか思えるくらいの「現実」を取り上げる側面もあるのです。まあそれをもっとも分かりやすい形で説明するのに「銀英伝が最適」という意味でご紹介させていただきました。それではここからが本来の感想です。

 

〇父と子と:フェザーンの場合

さて前述の国力変動の話である通り、同盟を莫大な債権で実質的にコントロール下に置き(「査問会」はこれのテストという一面もあったのでしょう)、今回いよいよ計画始動。そして「テスト」が終わって用済みとばかりにある人物の「処理」が話し合われます。

ここからのルビンスキーとルパートの会話劇は凄かった。細かい台詞に付随する2人の「眼」が語る表情変化が素晴らしすぎるのよ

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シャフトの処分についてまるで「用済みの玩具を捨てる」ぐらいの感覚でその処分段取りを語りだすルパートの眼はまさしく権力者らしい冷酷さ満々。逆にルビンスキーの表情は何か「試す」かのようになります。そしてここで爆弾発言。「ルパートの母の命日」であることを理由に休暇を取るようにというルビンスキーにしては珍しい温情ある対応を取り出します。

ルビンスキー「当然だろう、自分の血を分けた相手と思えばな」

それまでどこかルビンスキーに対して皮相っぽい表情を浮かべていたルパートが初めて一変させた瞬間。かつてルパートの母親となる女性と恋仲にありながら、「宇宙の何%の富を握る」富豪の娘との関係を優先して捨てたことに罪悪感を抱いていた…まあこれは間違いなくルビンスキーの本音でしょう。でなきゃわざわざ捨てた女のその後や命日を細かく覚えているわけがありませんからね。かくして感動の親子の対面…の筈が不穏なBGMが流れ出して、明らかにダークな雰囲気が増していきます。

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ルパート「ですが、私も閣下と…ええ閣下と同じ選択をしたでしょうから」

ここのルパートの表情、言葉とは裏腹に明らかに憎しみの念を持っているのが明らか。もちろん最初は「母と自分を捨てた父」に対する恨みが彼の行動原理だったのですが、しかし皮肉なことに権力の世界に身を投じていくうちにルパートもまた「父」を理解するようになってしまった。理性ではそう思っていても、でも絶対に感情がそれを許さないという複雑な心理がない交ぜになった表情。

そして大学院を出たばかりの自分を補佐官という重職に抜擢したのは親子の情ゆえかと問いかけるルパートに「そう思うか?」などと質問で返すルビンスキー

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ルパート「思いたくありません。私は自分の能力に多少の自信を持っていますから。そこを買っていただいたものと信じたいですね」

ルビンスキー「君は私に内面が似ているようだな、外見は母親に似ているようだが」

あ、それは私も思った。どう見ても母親のDNAが色濃く引き継いでいるという意味ではドズルとミネバを思い出すルパート。そしてここの場面、ルパートのなかなかにナルシストめした仕草が最高に彼の自信過剰ぶりがよく出ていました。そして野沢健児さんが実によくマッチしているのよ。

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ルビンスキー「フェザーンの元首の地位は世襲制ではない、私の後継者となるには、血ではなく、実力と人望が必要だ。時間をかけて、それを養うことだな」

ルパート「おことば、肝に銘じておきます」

一見すると互いに公私の区別をつけた勿体ぶった言い回しですが、その実はどう見ても親子の情念でしか動いているとしか思えない2人の会話。初めて眉が厳しくゆがみだします。

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ルパート「お忘れなく、私は貴方の息子なんですよ」」

ルビンスキー「ルパートは俺に似ている…」

そして最後にルビンスキーの屋敷を辞去する時には明確な叛意が生まれていました。そしてそんな息子の内心を見抜いたかのように物思いに耽るルビンスキー。この場面、明らかに第4部クライマックスに向けての伏線として十分でしょう。それまで淡々とルビンスキーに仕えていたルパートが初めて抱いた「私情」、それが後々に彼の行動を大きく縛り付けることになる。折角のルビンスキーのぶっちゃけ発言は逆の意味でこの2人に緊張関係をもたらします。互いに本音では相手を求めたいのに、権力者の感覚がそれを許さない。ルパートにとって欲しかったのは「父親」であるのに、用意されたのは「権力者の世襲」という彼にしてみれば最大の侮辱でしかない行為でしかなかった。一方のルビンスキーにしてみれば、権力者としての嗅覚が「息子の内面」がかつての自分と同じであることを察知している。そんな一筋縄ではいかない、複雑な2人の関係がやがて2人の未来に影を落とす。

全て「目」で語りだすその手法は素晴らしい

もう一つ、このシーンで重要なのは

人はどうしても「世襲」という生物の宿痾からは逃れられない

ということを示しています。それはルビンスキーほど感情を排したマキャベリストでさえ例外ではない。原作では彼がルパートを手元に置いている「本音」として、危険な存在である彼を監視下に置いておくという権力者の論理で側近として置いていました。しかし、これ実は第39話で明らかになるのですが、実は適材適所でなかったといえます。皮肉なことにあれほど優秀な為政者であるルビンスキーもまた「一人の父親」となってしまうと、途端に冷徹ではいられなくなる。今日でも現代の民主国家でさえ、世襲議員が出てくるなど、人類は未だ数千年前からまだまだ進歩できていない。そして、これはこの後の帝国と同盟でも出てきます。もちろんそこで本来「最適」な選択をすることになるのは…

ぶっちゃけて言います。もう今回第1章の37~40話で文句なく素晴らしかったのはこのルビンスキーとルパート親子。絶対に異論は認めない。ここに関してはマジ、石黒版を凌駕したと言えるでしょう。

 

〇原作を読んだの?帝国パート

さてここからは帝国と同盟パートそれぞれが描かれますが、まあそれはちょっと簡単に流していきましょう。というか悪い部分がまたしても目立ちました。

まずは帝国パートはミュラーの帰還から。ちょっとゴメンナサイ、ここで細かいツッコミ入れさせてください。

ナレーション「イゼルローン要塞攻略軍がオーディンへと帰還してきた。総司令官ケンプを喪い、ガイエスブルク要塞を喪い、2万9千隻以上の艦艇と180万以上の将兵を失っての無残な帰還だった」

おい、ちょっと待てこの文章おかしいぞ。実はこの下山氏のナレーション、原作の表記をそのまま取り入れているのですがある重大な欠陥があります。それは動員兵力と艦艇の数。

原作・石黒版のイゼルローン要塞攻略軍の動員艦艇と損失

動員艦艇1万6千隻、うち喪失艦艇は1万5千隻以上、(帰還率5%)、戦死者180万以上

 

ノイエ版のイゼルローン要塞攻略軍の動員艦艇と損失

動員艦艇3万7千隻、うち喪失艦艇は2万9千隻以上、(帰還率20%)、戦死者180万以上

見ていて分かるのですが、ノイエ版は2個艦隊分の艦隊が投入されています。まあこれは流石に艦隊司令官クラスが2人いて1個艦隊分の戦力ではおかしいと思ったのでしょう。それは勿論OKなんですが、なんで戦死者が同じ数字になるんですか!ノイエ版は確かに帰還率から言えば、「マシ」と思えるのですが、絶対数で言えば原作・石黒版の2倍近い損害を出しています。なのに、何故戦死者が同じ数字になるんですか?いや、確かに戦死者の算出数、原作でも実を言うとかなりバラバラなんですが、2倍近い動員と損失が発生しておいて、戦死者数が同じなんていくらなんでもありえないですよ。確かにガイエスブルク要塞にいた兵員は原作に比べて犠牲無かったとはいえ、それ以外では例えば陸戦部隊である「装甲擲弾兵」部隊は凄まじい損害を被っていた筈。なんか、脚本家の人が書いている時に気づかなかったのかと素朴に疑問に思います。それにしてもノイエ版はそもそもガイエスブルク要塞「特攻」で犠牲になったのはケンプ一人と重傷を負ったミュラーくらいしか描写されていないのですが、艦隊戦だけでこれほどの壊滅的損害を出してしまって大丈夫だったのかと思いたくなります。これもあの「要塞対要塞」の決着を「特攻賛美」の描写に改変した弊害と言えるでしょう。

 

ラインハルト「ミュラーは厳罰に処す!」

原作・石黒版でも怒りを露にしていたのですが、ノイエ版でははっきりと皆の面前でミュラーの処分を口にしてしまうラインハルト。しかし、その後にキルヒアイスのペンダントを持ち、考えを改めます。これは彼自身、今回の作戦が用兵の常道に反していたという思いがあった裏返しとやはりキルヒイアスにしか心開けられないでいるラインハルトの孤独さなんですが、それにしてもあんなはっきりと口にして大丈夫かな

ヒルダ「コイツ、この前と言っていること違うやんけ…」

オーべルシュタイン「コイツ、この前と言っていること違うやんけ…」
キスリン
グ「コイツ、この前と言っていること違うやんけ…」

精神的に危ない人と思われないか心配になります。そしてマモハルトさんの面前で詫びの言葉を入れる上村くん。またしても『文豪ストレイドッグス』での中島と太宰の関係そのままマモさんに振り回される上村君wwというのがミュラーには気の毒ですが、笑えてきてしまった。幸い、先の心理変化の影響で寛大な言葉で安堵と共に倒れてしまうミュラー。それにしても意識失ったのに兵士たちから肩を担がれる形で引きずられて搬送されるミュラーが可哀そう。帝国にはストレッチャーとかはないのね。

なおラインハルトが「寛容」でいられるのは有能な人材だけ

まだミュラーは「見込み」を買われて許されましたが、「有害」と見なされた人材には「厳罰」しか待っていない。ゾンバルトしかり、グリルパルツァーしかり、トゥルナイゼンしかり(まあ閑職送りになっただけマシか)そして、ここにも厳罰の対象にされた人間が一人。フェザーンから切り捨てられて、汚職の証拠をリークされてしまった(先のルパートの廃物処理)シャフトはケスラーと憲兵隊に連行されていきます。

シャフト「お、お待ちください、閣下!私は石黒版でナレーションの大役を果たした人間ですぞ、それをこんな粗末に扱うなんて…閣下!閣下!」

マモハルト「クズが!ここはノイエ版だ!」

あ、間違えた。正しくは「私の今までの献身をお忘れですか」です(笑)

うーん、ちょっと勿体なかったな…折角屋良さんを登場させたのですから、もう少し見せ場が欲しかったところかな…。

 

次にケンプ戦死の報告をメックリンガーがケンプ家に告げに行くシーン。これはもちろん悲しい場面なのですが、ゴメンナサイ。これもまたツッコミの内容。泣き崩れるケンプ夫人とその母を力づけようと気丈にふるまう2人の息子たち…

ケンプ次男(5歳)「母さん、母さん、泣かないでよ。父さんの讐はきっとぼくが討つから。ヤンとかってやつを、きっとぼくがやっつけるよ」

ケンプ長男(8歳)「やっつけるよ!」

ねえ、教えてください。なんで兄弟の台詞をアベコベにしたんですか?

これ原作小説でもちゃんと理由が明示されています。8歳で「復讐」という概念が形成されつつある長男、一方の幼い次男がはまだそこまでの意味が理解できずにただ兄と同じ言動を取っているだけなんだ…と。それを逆にしてしまったら意味不明になってしまうじゃないですか!先の「戦死者数」の問題もそうなんですが、なんでこういう「改変」してしまうのか、本当に不思議なのよ。少なくとも原作読んでいれば、これ普通にそのままやればいいだけなのにわざわざ改変する理由が見当たらない。ノイエ版はちょくちょくこういう首を傾げたくなるような描写があるのが欠点です。

 

〇ヒルダ、戦いを決意する

ヒルダがミュラーに対する寛大な対応を称賛するとともに、現在の帝国の状況を分析し、暗に「今は内政の充実を図るべき」と今回の出兵に対しての遠回しな警告を述べるラインハルト。しかし、なんかはぐらかされるように話題をそらされます。

ラインハルト「権力は一代限りのもので、それは譲られるべきものではない、奪われるべきものだ」

ヒルダ「すると宰相閣下は、ご自分の地位や権力を、お子様にお継がせにはならないのですね」

なお、この会話最終的に壮大なブーメランになります。

「世襲」を唾棄すべき慣習として一蹴するラインハルト。それどころか、むしろ「自分を倒せるだけの実力者の到来」をどこか望んでいる節がある。そこにラインハルトの精神的危うさがあり、やがてそれは後々の戦乱へ…このままラインハルトが孤独な権力者であり続けるのは、やがてルドルフの再来となってしまうではないか…これは実はラインハルト自身の矛盾でもあるのですね。そして自らがオーべルシュタインと戦うことになってもラインハルトの心を引き留める決意をするのでした。

 

…それにしてもここのヒルダのキャラデザイン、なんかどこか元々のヒルダのデザインである「美女というよりは美少年を思わせる快活的な風貌」を思わせるのですね。え、ちょっとそこだけ原作帰りした?石黒版でも道原版でもフジリュー版ですら、踏襲していたのに、完全にキャリアウーマン風の美女にデザインしたノイエ版だった筈ですが…

 さて、一方では着々と進むロイエンタールの叛意ゲージ上昇。ミッターマイヤーにも「おいおい、大丈夫か」と窘められるほどのぶっちゃけトーク。まあここは原作通りですので、良しとしましょう。今までのロイエンタールの描写がおかしかっただけです。

 

〇義父と養子と:同盟の場合

風邪ひいて寝込んでしまったヤンとオカンのユリアン(笑)駄々っ子のようにワインを所望が欲しいと言い出すスズケンさんのヤンは久しぶりに子供っぽい印象が強い。ブツクサ不平不満を言うセリフはどこか「ヤン」というよりはスズケンさんの素に近い部分があります。ここら辺の私生活面でのダメ人間と、その一方で歴史を通しての「軍隊」についての自らの観点を述べていく保護者としてのヤン。ここでの会話「ルドルフという独裁者を剣で倒すことはできないが、ペンでならそれを告発倒すことが出来る」これは田中センセイのある意味でのこのセリフに込めたメッセージでもある。

ヤン「現在の文明は過去の集積の上に立っている」

ここら辺は現代の「ポリコレ戦士」の方々にも自覚を持って欲しい部分でもあります。良きにせよ、悪きにせよ、現代の我々は過去の集積によって成り立っている。それを一方的に現代の価値観で「全否定」しては果たして「進歩」と言えるのか?もちろん過去を全肯定するのではなく、そこを考察しないとだめでしょう。

 失礼、こうして改めてユリアンの軍人志望の道を容認するヤンなのでした。このパート、まさに冒頭のフェザーンの実の親子との対比として上手い構図です。血を分けていても、いやむしろ血を分けたからこそ近親憎悪の関係にあるルビンスキーとルパートは互いに心開けずにいる。それでいて、ルビンスキーもまたこの面では「世襲」からは逃れられないでいる。

しかし、ヤンには「血のつながり」そのものからは「自由」でいられる。そして彼の考えを継ぐ者がいる。最終的にこの物語においてその意味での勝者は明らかでしょう。