大阪府東大阪市にある若江城、この城は歴史では非常に魅力あるものがあります。一向一揆の拠点としてスタートし、やがて三好家の本拠地として、それからキリスト教会の町へと様々な有為転変を繰り返したことです。残念ながら、城としての現在の見どころはゼロといってもいいくらい、痕跡らしいものは見当たりませんが…
〇わずかな石碑と案内板
若江城は現住所の我が家からもっとも近い距離にある城跡。当然、電車を使うまでもなく自転車で進んでいけます。K鉄奈良線若江岩田駅から南へ1キロほどのところにあります。もっとも現在では道路と住宅街と化していて、最早稲荷社にある
この若江城の石碑のみが若江城があったことを示す痕跡です。
その向かい側にかつての若江城主郭跡がありました。今では公民館となっています。
その一角に解説板とかつての発掘調査の写真があります。残念ながらこれだけでした。うーん、ちょっと残念。
〇東大阪の要衝
若江は十三街道によって大阪市玉造から若江を通り、八尾市を経て大和国に至る要衝であり、その街道を扼するように若江城はありました。その初見は、寛正元年(1460)9月、応仁の乱の当事者である畠山義就が京都の屋形を退き、河内に下校した時に入ったのが始まりとされています。応仁の乱最中にはその不倶戴天の敵である畠山政長が文明3年(1471)に城として利用していたために河内国守護の拠点とされていたことがわかっています。その後、文明9年には河内国守護は畠山義就となり、これ以降一旦城の記録が途絶えたことから、廃城となっていたとされています。
その後、再び若江城が登場するのは戦国時代、若江は石山本願寺と深い関係にあったらしく、一向一揆の拠点となり、その後、三好長慶の甥である三好義継がそれまで養父の長慶が本拠とした峻険な飯森山城より、若江に拠点を移したことで再び城として歴史が始まりました。義継は爆弾正重臣松永久秀とともに信長方として活動していましたが、本願寺と信長が戦争状態となると松永とともに本願寺方として戦闘状態になります。若江城がもっとも歴史的に注目を浴びたのは天正元年(1573)のこと、この年、信長と敵対した将軍・足利義昭は槙島城から追放され(一般に室町幕府の滅亡とされる出来事)、この城に滞在。義継はこの時、既に義昭の義弟という親密な関係にあったことから義昭を迎えたのでした。そのため、織田方は一時攻撃を控え、交渉の末に義昭は堺に退去。同年11月16日に信長に内応した家臣の裏切りにおり落城、自刃したのでした。
この時、内応した家臣の多羅尾綱知らが城主となり、若江三人衆となりました。その一人、池田教正がキリシタンであったころから、教会が建設され、盛んに改宗活動が行われていたとフロイスの書簡にあります。その後、信長は若江城を本願寺攻めの拠点として入城して、指揮を執り、石山合戦の前線基地として機能したのでした。石山合戦が終了すると若江城は廃城となり、若江三人衆も八尾へ入ったと記録にあります。
〇アクセス
「若江城に狼煙が一本・・・」





