〇奈良市内にも名城があった!

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日本全国城郭巡りの旅を通じて津々浦々の地を巡ってきた私ですが、一番関心が薄かったのが地元・奈良市であったりします。何しろ寺社仏閣か遺跡か住宅街しか記憶になかったほどで過去を検索してみても大抵は郡山以南~中部までの地域とであり、北部と南部(吉野以南)は全くのノーマークでありました。市内でなく柳生までならないことも無いが実際にはあそこは自治体区分では同じ「奈良市」ではありますが、全然別の地域。そんななか2月にお越しになりました賢人である明石のタコさんのご教示により、この城の存在を知る事が出来ました。改めて明石のタコさんにこの場を借りて感謝の言葉を述べさせていただきます。

ある日の日曜日、久しぶりに奈良方面へと自転車にて向かうことにしました。奈良も最近は外国人観光客でごった返すようになり、ただでさえ狭い路地は凄まじく混雑となり、進むのにも苦労します。猿沢池辺りまで来ることでようやく解放されたような気分になりました。それにしてもここはあまり風景としては変わらないものです。昔は図書館でゆっくり時間を過ごしていたものですが、最近奈良方面へはとんと足を運ばなくなったなぁ・・・

奈良公園の東端部、春日大社の境内前から南下して高畑町の方へ向かいます。

 

 

奈良ホテルの向かいにある小高い丘が西方院山城です。もっとも地図には表記があるのですが、全く現地行っても表示がされていないので、登り口はどこだ?と四苦八苦する羽目に。

瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)

一発で漢字変換できなくて困りますが、かつて飛鳥京の社を平城宮遷都と共にこの地に移したといわれ、「平城(なら)の飛鳥山」と言われる由緒正しい神社でもあります。

西方院山城はこの地に築かれたのでした。

なお神社境内はフリーで入れるわけではありません。17時には閉門してしまいますのでご注意ください。

 

ところがこの上にある筈の城跡に登れる入口が無い。どこ?

結局、目の前に山城があるのに登り口が分からないためにぐるぐる一周するはめに。こちらは北面の荒池

奈良公園ではおなじみの鹿の群れ

遂に業を煮やした私は西面の奈良ホテル駐車場から斜面をよじ登ることに、見た所では鹿の〇があるので

「鹿が登れるなら人間にも登れるだろう」

なんて無茶な論理で滑らないよう上って行ったのでした。

結局、数分ほどしたらあっさり本丸跡に到着。

西方院山城は方形で、堀切で限られた東と西に土塁をめぐらせていました。

そして見事な東面に特徴的な二重堀が鮮明に残されていました。

それにしてもここ城跡の筈なのにまったく「城跡」の石碑らしきものが見当たらない。

南面からは奈良市街が一望できます。

西方院山城の特徴として、主郭には身分差を設けていない一元的な構造となっています。通常、戦国時代の城であれば一時的な陣城でも武将クラスは厳重に防護されるように特別区画が設けられているのですが、この城の作られた時代はまだそこまでの段階に達していない。

堀切と土塁

堀切自体の深さで5メートルに達します。

それにしてもこれほどの見事な城跡が残っていたのは驚きでした。さて主郭の南に下りる坂道らしきものがあったので降りてみると

城跡への登り口はこの小さな戸からでした。本殿右脇に有りました・・・

いやこんなの分かるわけねーだろ!!案内表示も何も無かったぞ!!

折角ですのでここからちょっと周囲の散策を

大乗院庭園

大乗院は寛治元年(1087)に創建された興福寺の門跡寺院で、室町時代に足利義政の命を受けた作庭の名手・善阿弥によって作庭された庭で、「南都随一の名園」として知られた存在でした。

荒池沿いにある奈良ホテル

かつてはここにもう一つの城跡である鬼薗山城があったのですが、こちらはホテルによって完膚無きまでに破壊されました。

最後に折角この前の明石のタコさんに寺院の魅力をご教授いただいたことですし、興福寺へとまわることにしました。

 

〇大和版「応仁の乱」・興福寺の壮絶な内ゲバが生み出した陣城

現在は観光客でごった返し、鹿が「鹿せんべい」を食べる長閑な風景が広がる奈良公園ですがかつて明治の廃仏毀釈の時期までは大部分が興福寺の境内地となっていました。ご存知元々大和国は寺社勢力の強い地域であり、中でも興福寺はその中でもひときわ強力な諸侯でもありました。室町時代には大和国守護に準ずる存在(守護格)として扱われ、寺内の有力院家である一乗院門跡と大乗院門跡という2つの勢力がそれぞれ大和武士を「衆徒」(興福寺僧)と「国民」(春日大社神官)に分かれて組織していました。

しかし15世紀中ごろに大乗院門跡が2派に分裂して経覚派と尋尊派に分裂、それぞれ大和武士を抱き込み、前者には越智氏・古市氏が後者に筒井氏がつき、寺院内で内ゲバを開始、遂に興福寺内で武士による築城が行われるほどになりました。

おーい、「神域を血で穢してはならない」のでは無かったのかい?

 西方院山城はこの過程の中で「陣城」として構築されました。標高111メートルの西方院山と呼ばれる尾根上に位置しています。もっとも実質的な比高はわずか11メートルで、重要なのはその位置が興福寺中心部と旧大乗院を隔てるように築かれており、双方ともに寺内での軍事的主導権を握る上で欠かせない立地にありました。だから「御仏の教えは何処行った?」

 文安元年(1444)に尋尊派の筒井氏らを駆逐した経覚派は大乗院境内で西方院山の尾根続きにある鬼薗山に築城を計画。しかし境内内であったので工事が難航し、西方院山城の強化と合わせて並行して行い、鬼薗山城が先に完成したことで放棄されました。その後も鬼薗山城では越智氏と筒井氏の争奪戦が繰り広げられましたが、長禄2年(1458)に廃城になったと言われています。

だから「御仏の(以下略)

結局両派の構想は経覚が没した後も続き、越智氏は古市氏を奉行として文明11年(1479)に西方院山城も鬼薗山城に対抗する存在として再び「堀二重」も改修させて再興されたのでした。1か月掛かりの作業でしたが、閏9月29日に完成しましたが、10月2日に筒井方に攻められて城兵によって自焼して陥落。築城工事完了から3日で落城というのはなかなか記憶する限り無かったと思います。

こうして興福寺内の権力闘争に端を発した壮絶な内乱は丁度京都で行われた「応仁の乱」と同じように双方の終わりの見えない混迷の果てに明確な終わりのないまま戦国時代に突入したのでした。

 

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南都を巡る攻防で誕生し、奇跡的に残った城跡「西方院山城」、戦国以前の室町期の城の中で遺構が残る数少ない貴重な存在です。

知らなかった…わが地元にこんな見事な城があったとは・・・まだまだ私も未熟です。それにしてもやっぱり地元ながら城に対する取り組みがまったくできていない。これほどの城跡が注目されていなかったのはまったくもって惜しい限りです。

 

 

≪参考文献≫

仁木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』 吉川弘文館 2015

〇アクセス

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近鉄奈良駅から徒歩  分

 

「西方院山城に狼煙が一本・・・」