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今から丁度250年前の1769年4月10日、一人の男がこの世に生を享けました。彼の一生は史実は小説よりもドラマチックなりを地で行く一生であり、その人柄は後世の異邦人でさえ「愛さずにはいられない」、人から愛される何かを持ったような人間であり、私も知れば知る程彼が好きになり、今では5本の指に入るぐらい好きな人物となりました。ある時は覇者を支え、ある時には色々ヤンチャな所業を繰り返す、勇者と子供っぽさが愛嬌として惹かれずにはいられなかった。そんな彼の誕生日を記念して彼の前半生を紹介します。そして

「おめでと~おめでと~今日は楽しいお誕生日♪」

 

ジャン・ランヌはナポレオン旗下の元帥の一人であると同時に覇者として「皇帝」にまで上り詰めたナポレオンが認めた唯一の「対等の友人」であった。彼は唯一ナポレオンに対して“tu(トゥ)”という親しみを込めた二人称で(日本語で言えば「君」を意味する)呼ぶことを許された唯一の人間だったのである。その立ち位置は『銀河英雄伝説』でいえばジークフリート・キルヒアイスの立ち位置が近いかもれない。下層から最高権力者にまで上り詰めた人間とは常に孤高の存在である。たとえかつて親しい間柄であった人間だとしても権力者に上り詰めれば、「臣下」に過ぎない。その意味では皇帝即位後も「友人」として振る舞い、むしろそれを喜んだナポレオンとランヌはまさに「ラインハルトとキルヒアイス」の関係を思い起こしてしまうのは筆者だけであろうか。

その関係は信頼と親愛、そして時には激論と叱責を持ちつつも変わることは無かった。

「覇者が唯一心開く『対等の親友』であったこと」「時には『親友』に直言を辞さず、素直に耳を傾けたこと」そして「最期は『親友』の増上慢と判断ミスによって命を落とす悲劇につながったこと」などなんというか共通点が非常に多いのである。

その存在は常に「親友」とともに戦いの先陣を務めることであり、ナポレオンが指揮を執った戦いの殆どにその名が出ている。同時に喧嘩っ早く、また同時に時には子供のようなトラブルも引き起こすことしばしばであった。もっともこれは他の元帥たちや他ならぬ「親友」ナポレオンにしても同様である。

 

〇染物工が軍人となるまで

ジャン・ランヌは1769年、「親友」と同い年に農民の子供として生まれた。母親は不動産業者の娘であり、司祭である兄から初等教育を受けただけのまさしく平民の階層であった。ナポレオンの元帥たちは出身が様々で上は由緒ある名門貴族出身からブルジョワまで様々であるがランヌはその中でも最下層の方である。兄から教えられたのは生活に必要な読み書きと計算のみであり、やがて染物職人の徒弟として過ごす。彼は小柄であったが同時に強さとスタミナを秘めた体つきをしていた。時にはイタズラや厄介事を引き起こしてはいたが、同時に誰からも愛される存在であった。そのまま行けば染物職人として一生を平凡に生きると…思われた。

1789年7月、革命が勃発。それによって多くの人間にとってそうであったようにランヌにも転機が訪れた。23歳となったランヌは職人であることをやめ、志願兵となる。やがて東ピレネー軍に一兵卒となった彼は当初は「チビ」とバカにされる存在であったが、戦闘が始まると真っ先に突撃して、やがて皆から尊敬の念を勝ち取るようになる。軍人は激情家の彼にとって何よりの天職であることに気付くと共にそのまま常に先頭に立って突撃、このため彼は戦いの度に戦傷を重ねるようになるが持って生まれた頑健な身体でそのまま戦い続ける。やがて生まれた渾名は

「フランスのアイアス」アイアスはかつてトロイア戦争での不死身の英雄の名である。こうして兵士たちの支持を勝ち取ったランヌは一気に少佐の地位にまで昇進する。革命前にはまず考えられないことであった。

 しかし1795年、「テルミドルのクーデター」の余波により突如除隊を命じられてしまう。しばらくは庶民として暮らしていたもののやはり戦争と軍隊が生きがいとなっていた彼は再び志願してまた一兵卒として加わる。少佐から一転、再び一兵卒に逆戻りとなったが、それでも配属となったイタリア軍でもめげずに真っ先に突撃をかけて戦功を上げ、軍曹に昇格する。そしてここイタリア方面軍で彼は生涯の「親友」と出会うことになる。

 

〇覇者の「親友」となり

イタリア軍の新司令官となったナポレオンであるが、当初は司令官となった当初は兵士や将軍からの評価は散々であった。しかしナポレオンは将兵に十分な昇格と褒賞金を与え、一夜にして将官と兵士たちの心をつかんだのであった。ランヌもこの恩恵から少佐にまであがる。更にこの後戦功を重ね、4日で大佐にまで昇進したのであった。

そして1796年5月9日ロディ橋の戦いでは砲弾が飛び交い、橋の対岸からは大砲が向けられている中にあって真っ先に橋を渡るために先陣を切る。この時、ナポレオンも自ら軍旗を引っ提げて突撃したというがこちらは「伝説」の域を出ない。

 このように既に一隊の指揮官にまでなったランヌであったが、その一方で常に先頭に立ち続けていたが故に必然であったが、負傷の絶えない戦歴でもあった。それでも持ち回りの身体の頑健さとスタミナから常人ならしばらく病院のベッドか棺桶に入っていないとおかしい状態でもすぐに復帰した。それが遺憾なく発揮されたのがもう一つの「橋」であるアルコレ橋のことであった。11月16日、アルコレ橋の戦いでランヌは銃弾を2発受けて失神し、後方へ運ばれるが意識を取り戻すと医師の制止を振り切り、すぐまた戦闘に参加。この時、同じく旗を持って突撃していたナポレオンのすぐそばで一つの戦いで3つ目の傷を受け、またしても野戦病院に戻されたがこの時、ナポレオンは報告書でランヌの勇気を激賞して、いつしか二人は「親友」ともいえる間柄となっていく・・・

互いに「Tu(『君』)」と呼び合う仲として以降、ナポレオンのいる所にランヌも共に戦うことになる。この北イタリアの戦功で1797年に遂に准将に昇進。いよいよランヌは将官として活躍していくことになる。

 

○失意の「東方遠征」

1798年、ナポレオンはエジプト遠征に出立することになり、ランヌも付従うことになるが、エジプトまでの45日間で度々問題を引き起こす。この船団には170名ほどの学者や芸術家も同行していたのだが、厄介なことにランヌはこれらの集団と同じ船室内であった。戦うばかりの人生であった軍人たちにとってこれらの文人は目障りな存在であった。出航時に広い部屋を宛がわれた詩人がはしゃぎ回っているのに対して、ランヌは

「オレがこの船の司令官だったら、お前らを全員海にぶち込む

と放言。ナポレオンが「友」と認められた男の発言が引き金となって、将官たちは文人たちの部屋に乗り込み、勝手に占拠してしまう。哀れ民間人たちは航海初日を甲板で一夜過ごす羽目となった。翌日に苦情を受けたナポレオンは全て元に戻すよう厳命したが、発端となったランヌの行為が咎められることは無かった。

ランヌは勇将であるが同時に厄介なトラブルメーカーでもあった。そのため後述するがこの後も幾多のトラブルを引き起こしているが、基本的にナポレオンはそれらの行為を厳しく罰することはついぞ無かった。

「親友」には甘々なナポレオンであった。

 

6月9日のこと、船団は地中海中央のマルタ島に到着すると占領の為に上陸する。1か月近い船旅にうんざりしていたランヌは上陸してマルタ騎士団の兵士たちを一掃。この時、騎士団と裏で交渉していたナポレオンは武力攻撃を控えるように命令していたのであったが、ランヌは部隊を集めると2時間ほどで要塞を奪取。自分の命令に背いたことは「親友」を激怒させ、「今度からは絶対に命令に背くなよ!死んでもらう時には俺から知らせるからな!」とまで言われて船に戻らされるが、不服であった彼は再び島に上陸してしまう。

この時、島の尼僧院にフランス兵が略奪・暴行をかけようとしていたところに出くわし、尼僧から懇願されたランヌは略奪者たちを追い払い、部下が兵士たちを連れてくるまでその場にとどまり、惨劇を防止する役割を果たした。結局、略奪者は軍紀違反として処刑されたが同時にランヌの命令違反については特に処罰されることもなかったようである。

やっぱり親友には甘いナポレオンであった。

7月にようやく上陸してみると砂漠という過酷な環境、そしてベドウィンたちの襲撃、相次ぐ自殺や錯乱する兵士たち、過酷な環境は大いに苦しめる。そしてフランス艦隊壊滅により、ナポレオンらは孤立下におかれた。翌年、遠征軍は更にシリアへの進軍を開始した。この遠征でランヌは初めて師団長となって先陣を任された。アクレの要塞攻略でもランヌは先陣に立ったが、またしても負傷というか命の危機に立たされた。この時は頭部に銃弾を受けてあわや要塞前に放置されてしまったのである。さしもの「アイアス」もここで命を落とした…かに思われたが、一人の大尉が駆け寄って必死に彼を運んだことで命を取り留めた。ランヌは兵士たちからも厚い友情を勝ち取っていなければこの時命を落としていたかもしれない。この大尉についてランヌは感謝し、フランスに帰国した時に彼が店を開くときには援助して、幾度も店に滞在していたほどであった。この時ランヌの受けた銃弾は頭部を撃ちぬいていたが、なんと奇跡的に脳に達することなくこめかみに沿って後頭部に弾が逸れていたという…

かくしてランヌも重傷に象徴されるようにアクレ要塞戦は夥しい損害と伝染病流行の末に撤退に追い込まれた。艦隊が壊滅したことでエジプトに孤立下に置かれた状況下でランヌにョックな凶報が襲う。妻ポーレットがフランスを離れてから14か月後に子供を出産した、という知らせを受けた。当然のことながらランヌの子ではない。彼は帰国して間もなく最初の妻と離婚することになる。アブキールの戦いで勝利を挙げたナポレオンはこの機会を利用して僅かな幕僚だけ連れて帰国しようと計画、ランヌもわずかな供の一行に加わったのは言うまでもない。そしてブリュメール18日のクーデターではランヌは松葉杖をつきながらチュイルリー宮殿の守備隊の指揮を執り、親友のクーデターに貢献、これによってランヌは第一執政という最高権力者の地位に上り詰めたナポレオンの執政警護隊司令官となった。エジプト遠征以降ランヌは人が変ったようにあれほど軽蔑していた勉学に励んだ。それは軍人から政治家へと転身した「親友」の支えとなろうとするのか、毎夜数時間は文学などの教養や高級将官として見識を身に付けようと努力した。

ナポレオンは後にこう回想している。

「私は彼を剣士として見出し、騎士として失った…」

ただの勇猛果敢な戦士から様々な兵種を総合的に運用し、攻勢・防御を局面に分けて使いこなす指揮官として…のちに「大陸軍(グランダルメ)」と呼ばれることになるフランス軍でランヌは「大陸軍一有能な前衛指揮官」として名を馳せ、そしてこれ以降「親友」の戦傷に縁の下の力持ちとして貢献していくことになる。

 

〇「親友」との諍い

もっともその一方で粗野で喧嘩っ早く、子供じみた性格までは終生直ることはなかった。基本的にナポレオン旗下の元帥たちというのはそれぞれ出身も思想もナポレオンの忠誠度合いもバラバラで互いにいがみ合う存在であったが、とりわけランヌは他の元帥たちとしょっちゅうトラブルを引き起こしていた。特に騎兵出身のミュラとその盟友べシェールとの不仲は有名で両者は時に相手の素行を訴え、時に悶着を引き起こすことしばしばで例えば、エジプト遠征の時にナポレオンに不満を持ったミュラが反逆を企てた時には密告し、逆にランヌの素行をミュラの盟友・べシェールが密告してそれがやがて大問題に発展したり…という具合であった。また同じくナポレオンをして「我が最高の軍略家」と言われたスルトも忌み嫌っていた(後述するがこれはスルトの方が悪い)。その一方で共和派であるオージュローやスーシェとは非常に親しい仲でこうしてみるとイエスマンや阿諛追従の徒ほど嫌い抜き、一方で反骨真のある将とは馬が合ったようである。

有名なナポレオンのアルプス越えにも当然のことながら従軍して、北イタリアのモンテッペロで前衛部隊を率いていたランヌはオーストリア軍の大軍と遭遇する。この時、ランヌの兵力は6千、一方のオーストリア軍は1万7千と3倍近くであった。ランヌは粘り強く奮戦し、援軍6千が到着するや否や真っ先に突撃をかけて敵を撃破、交代に追い込んだ。このモンテペロの地名を冠して後にランヌは「モンテペロ公爵」に叙せられることになる。そしてこの後にナポレオンが判断ミスを犯してしまい、総攻撃を受けたマレンゴの戦いではランヌはまたしても粘り強く戦い、7時間もの長時間戦線を持ちこたえさせた。この年、ランヌは新たにナポレオンから紹介された女性、森林監督官の娘であるルイーズと結婚、ルイーズは18歳、ランヌは31歳であった。美しくそして優しいルイーズとは相思相愛となり、5人の子供を儲けた。この当時、ナポレオンを始め多くの人間が愛人を複数人持っているのが常識であったが、この点ランヌは妻一筋の一途な男であった。

 

こうして順調に出世していたランヌであったが、思わぬ所から蹉跌を食らうことになる。執政警護隊司令官になったランヌは部隊の制服に金をかけすぎて30万フラン(現在の価値で約6億円)を使い込みしていたことを仇敵のべシェールに知られ、密告されたのである。これには流石のナポレオンも大激怒!!

ランヌにすぐに使い込んだ30万フランを1か月以内に国庫へ返却するよう迫り、やがて2人は口論が高じて遂に第一執政と親衛隊司令官2人による決闘騒ぎにまで発展してしまう(流石に周囲の人間が必死に制止して未遂に終わった)使い込んだ軍費の返却は僚友のオージュローが立て替えて弁済したことで事なきを得たが、ランヌは執政警護隊司令官を解任されて、ポルトガル大使へと左遷された。

「親友」とまで目された男も遂にナポレオンの不興を買って失脚した…というとそうでもない。というのも当時の外交官というのは赴任先で莫大な見返りの貰える「非常に旨味のある」職種(もちろんそんなことができるのは当時のフランスが軍事大国であったればこそであり、すべての国の外交官がそうであったわけではない)であった。実際、ランヌはこの時まんまと一財産を稼ぎあげることに成功した。また当時ランヌとナポレオンの間にはぎくしゃくしたものがあった。当時、ナポレオンは旧体制との和解を掲げて、教会との革命政府時代に敵対していたローマ・カトリック教会との和解を結んだことには革命の思想が強い軍部の間では不満が渦巻いていた。他ならぬランヌもその一人でローマとの政教条約成立を祝う式典では

ランヌ「こんな茶番をなくすために死んでいった百万人の英霊たちを呼び戻せ!!」

と友に噛みつくほどであった。ナポレオンとしては親友が軍内部の共和派と遠ざけることを狙っていたのかもしれない。また、どう見ても適性の無い職につけることで右往左往させて逆に自分に縋り付かせる思惑もあったのかもしれない。僚将のミシェル・ネイも同じくスイス大使の職を宛がわれ、慣れない外交官職に困惑している彼に有能な補佐役をつけさせて職務を全うさせ、これによってネイはナポレオンに心酔するようになっていた。同じ手を親友に当てはめようとしたのか。もっともランヌの方は慣れない仕事で萎縮するどころか相変わらずヤンチャぶりを発揮していた。ポルトガルでも彼は傍若無人に振舞い、ポルトガルの人々からは恐怖の的となるほどであった。どこへ行くにも大きなサーベルをがちゃつかせており、例えば会見したポルトガル貴族などは対面しただけでブルブル震えている程であった。またランヌは戦争を通じて終生イギリス人を憎悪しており「いいイギリス人は死んだイギリス人だけだ」と言わんばかりであった。ポルトガルでは英国大使の馬車と鉢合わせした時には自分の馬車を相手の馬車にぶつけて溝に突き落とすという大人気ないにも程がある乱行を引き起こしたほどである。世が世なら大問題になりかねない行為であるが、この時ナポレオンがランヌを処分したり、叱責したりした事実は史料には残っていない。

どこまでも友には甘いナポレオンであった。

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〇「大陸軍」の先頭を行く勇者

ランヌがポルトガルで「荒稼ぎ」してパリに戻った後の1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると「帝国元帥」(マレシャル・ダンピール)の叙任式が行われた。それは皇帝に即位したナポレオンが任命した軍人としては最高位にあたる地位であり、特に皇帝に即位した1804年に任命された14名の現役軍人たち、そして4名の名誉元帥(革命戦争で功労のあった老将)を任命した。友であるランヌもこの中に選ばれ、かつて農民の子供として生まれた彼はここに帝国の藩屏となったのである。

彼は大陸軍(グランダルメ)の中で第5軍団長となる。この軍団は兵力1万8千の比較的少数の軍団組織で、移動のスピードと機動性を重視した構成となっていた。そのために前衛として常に敵と前衛として立ち向かうなど危険と隣り合わせであったが、ランヌはここでも先頭に立ち続けた。

 

さてイギリスが音頭を取り、オーストリアやロシアが加わった第三次対仏大同盟により、再びフランスは戦争を開始する。まずウルムの戦いでオーストリア軍に大勝利を挙げて、オーストリア本土へ侵攻を開始した大陸軍では崩壊状態にあったオーストリア首都ウィーンへ進撃するためには要衝・ターボル橋を確保する必要があった。

この時、追撃の先鋒を任されていたのはランヌとそして犬猿の仲であるミュラであった。ナポレオンは意図的に犬猿の仲の二人にコンビを組み合わせて、競争意識を刺激させて功名争いを仕向けたのは明らかであった。。そしてこの時ばかりは2人は手を取り合って奇策で乗り切ることにした。

オーストリア軍の守備隊が橋を爆破準備する中、きらびやかな礼装服に着替えた2人の元帥は単身で橋を悠々と渡り、守備隊に対して「先程和議が成立してこの橋はフランス軍が管理することになった」と大ウソをかました。余りにも平然としているので守備隊の将軍もうっかり真実かもしれない…と迷い、2人の後に橋を渡ろうとするフランス軍への対応が遅れてしまう。流石に不審に感じた守備隊の下士官が砲撃しようとするとランヌは無言で大砲に腰を下ろしてにらみを利かせることで阻止した。かくしてはったりだけで無傷で橋を確保した両者はそのままウィーンまで進撃。迫りくるミュラとランヌの軍団を前に、オーストリア皇帝と軍は首都を放棄して無血開城に追い込まれた。

大陸軍は連戦連勝で進撃したが、敵国の領土奥深くで補給に不安を抱える憂慮すべき状況にあった、ナポレオンだけは勝算があった。彼にとって大事なのは勝利を迅速におさめること。歴史上有名な「アウステルリッツの戦い」は始まった。

アウステルリッツの戦いの前のこと、この時自軍が不利な状況下であることを憂慮していた僚将ミュラ・スルトらはランヌに皇帝に退却を諫言するよう頼み込んだ。絶対的立場にあった皇帝に率直に諫言できるのは「親友」であるランヌくらいであった。だがいざ皆を代表してランヌが退却を進言するとナポレオンは「え~、キミが退却進言するなんて珍しくね?(笑)」と言い、更にスルトに「どう思う?」と聞いたところ、スルトはさっき言っていたことと真逆のことを言い出したために当然のことながらランヌは大激怒!!またしても決闘騒ぎに発展し、忌み嫌うようになった。もっともそれで腐るようなランヌではなくこの重要な会戦においては最左翼にて1万4500の兵を指揮、ランヌとバグラチオン、2人に与えられていたのは共に「敵に街道を突破されないこと」つまり両軍ともにスポットの当たらないポジションを任されたのであるが重要度は変わらない。そして見事に任を果たしたのはランヌの方であった。彼は副官2人が戦死する状況下であっても最前線から動かずに粘り強く突破を許さずバグラチオンを退却に追い込んだ。アウステルリッツの戦いはナポレオンの軍略とダヴ―やスルトの活躍が目を行きがちであるが、それを支えたランヌも勲功の一人であったのは間違いない。一説にはナポレオンは当初、連合軍を完全包囲することを狙っていたが、戦況を臨機応変に判断して「半包囲」に切り替えたとされる。もし当初の予定通りであればランヌこそ勲功第一の将軍として

戦史に名を残せたかもしれない。

 

ランヌはナポレオンの軍で常に先陣に立ち、当時その存在は計り知れないものであった。時には友が「おいあの戦勝をオレに寄越せ」とか言った時も二つ返事で譲り上げるなど、常に友の為に戦い続けた為人である。だからこそナポレオンも勇敢で粗野で時には直情的になる友を信愛と信頼、そしてたまに叱責を加えながらも終生親友として接し続けたのである。

死が2人を分かつまで

 

 

後編は5月31日記事UP予定です。